授賞理由
今回で第4回になる日本ロシア文学会大賞は、推薦を2016年10月から受け付け、実施細則に基づき12月31日に締め切ったところ、計3件の推薦があり、それを受けて2017年4月23日(日)に東京大学文学部現代文芸論研究室において選考委員会を開催し、全会一致で桑野隆氏(早稲田大学教育・総合科学学術院教授)を大賞候補者として推挙することに決定した。そしてこの選考結果は7月23日(日)の理事会で報告され、正式に承認された。
桑野隆氏は20世紀ロシアを主たるフィールドとして、1970年代末から言語学・詩学・芸術研究の領域で先駆的な著作を次々に世に問い、ロシア・フォルマリズム、文化記号論、ミハイル・バフチン、ロシア・アヴァンギャルドなどの研究を一貫して主導してきた。
主要な単著だけでも、まだ31歳の若さで上梓した『ソ連言語理論小史 ボードアン・ド・クルトネからロシア・フォルマリズムへ』(三一書房, 1979年)に始まり、『民衆文化の記号学−先覚者ボガトゥイリョフの仕事』(東海大学出版会 1981年)、『バフチン <対話>そして<解放の笑い>』(岩波書店、1987年。新版2002年)、『未完のポリフォニー バフチンとロシア・アヴァンギャルド』(未來社、1990年)、『夢みる権利 ロシア・アヴァンギャルド再考』(東京大学出版会、1996年)、『ボリス・ゴドゥノフ オペラのイコノロジー 1』(ありな書房、2000年)、『バフチンと全体主義 20世紀ロシアの文化と権力』(東京大学出版会、2003年)、『危機の時代のポリフォニー ベンヤミン、バフチン、メイエルホリド』(水声社、2009年)、『バフチン カーニヴァル・対話・笑い』(平凡社新書、2011年)に至るまで多数にのぼる。いずれも深い学識と鋭い批判精神に支えられた著作であり、それぞれの主題についてその時点での到達点を示し、後進のための道を切り開くものであった。
桑野氏はさらに、最近では『20世紀ロシア思想史』(岩波書店、2017年)を上梓した。これは巨大な射程を持ちながらコンパクトに20世紀ロシア思想史を一望するもので、優れた学者であると同時に、自身が深い思想家であるからこそ書けた類例のない著作である。桑野氏の学識の蓄積と成熟の果実を世に問うものとなった。。その他、桑野氏はバフチン、ヤコブソン、ロトマン、リハチョフなどの重要な著作を翻訳し、専門的な読解に支えられた正確かつ明晰な翻訳を日本の読者に届けてきた。全8巻の未曽有の規模の翻訳資料集『ロシア・アヴァンギャルド』(国書刊行会、1988-1995 年)の編集・出版というプロジェクトの中心にいたのも桑野氏だった。こういった翻訳者としての功績も、桑野氏自身の著作と並んで重要なものである。
上述の研究・翻訳と並行して、桑野氏はロシア語の辞書・教科書の分野でも積極的に仕事をしている。同氏は『ロシア語辞典』(博友社、初版1975年)の編纂に若くして参加した後、『はじめてのロシア語』(白水社、1984年。三訂新版2016年)、『エクスプレス ロシア語』(白水社、1986年)、『CDエクスプレス ロシア語』(白水社、2002年)、『初級ロシア語20課』(白水社、2012年)といった一連の教科書を執筆して、わが国のロシア語教育に大きな影響を与えてきた。これらの教科書は、言語学的に正確な知見に基づきながら、文法事項の説明を大胆に簡潔にし、新しい時代に必要な親しみやすいロシア語入門書として歓迎され、ロングセラーとなっている。
さらに、桑野氏には学生の教育・研究者の育成においても顕著な功績がある。同氏は東京工業大学、東京大学、早稲田大学において、学部および大学院の授業を通じて多くの学生をロシア文学・文化探求の道に導き入れた。その薫陶を通じてロシア研究を志した教え子は少なくない。そして桑野氏の闊達な精神は、大学の枠組や学閥を超えて研究者間の横のつながりを活性化させ、その周りにはいつも、氏の学識と人徳を慕う同僚や後進のための開かれた場が形成されていた。桑野氏に惹き付けられた後進の研究者たちは、自発的に集まって「桑野塾」という研究サークルを組織し、現在も活動を続けている。
このような優れた研究者・教育者である桑野氏を第4回日本ロシア文学会大賞候補として推挙できることになったのは、大賞選考委員会の喜びであり、また誇りである。
日本ロシア文学会大賞選考委員長 沼野充義 |