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2016年度日本ロシア文学会賞
諫早 勇一 氏
同志社大学名誉教授,名古屋外国語大学中央図書館長・教授
授賞理由(
PDF版
)
日本ロシア文学会大賞(2016年度)選考結果報告
沼野充義
今回で第3回になる日本ロシア文学会大賞は、推薦を2015年10月2日から受け付け、実施細則に基づきいったん12月31日に締め切ったが、有効な推薦が得られなかったため、さらに受付期間を1月末日まで延長した。その結果、計6件の推薦があり、それを受けて2016年4月24日に選考委員会を開催し、全会一致で諫早勇一氏(同志社大学名誉教授、現在名古屋外国語大学中央図書館長・教授)を大賞候補者として推挙することに決定した。さらにこの結果を2016年7月24日に開催された理事会に報告し、正式承認を得た。
諫早勇一氏は(1)ロシア文学の先駆的研究、(2)大学におけるロシア語教育の発展、(3)学会運営の革新と充実、という三つの面のすべてにおいて多大な貢献をし、同僚たちを鼓舞し、後進の世代にとって輝かしい導きの星となってきた。このような優れた研究者・大学人は日本ロシア文学会の誇りとするところであり、今回の授賞は大賞選考委員会にとって大きな喜びである。
以下、選考会議での審査内容を踏まえて、授賞理由について具体的に記す。
(1)諫早氏は研究者としての経歴の初期から、従来の伝統的なロシア文学研究の世界では手薄であった比較文学的アプローチを積極的に試みながら(例えばゴーゴリ研究)、亡命文学研究の分野において先駆的な業績を次々に挙げてきた。特に、それまで事実上英語文学の専門家の領域と見なされていた亡命作家ヴラジーミル・ナボコフを、初めて本格的にロシア語ロシア文学の専門家の側から研究の対象とした功績は研究史上画期的である。英語・ロシア語の両分野の専門家によって運営される日本ナボコフ協会の創設(1999年)にあたっても、諫早氏の存在は決定的に重要であった。諫早氏がロシア語で執筆したナボコフ関係の論文は海外の専門家にも広く読まれ、諫早氏は日本を代表するナボコフ研究者として国際的に知られている。
諫早氏は亡命ロシア研究においては、ナボコフ以外にも視野を広げ、ガイト・ガズダーノフ、ゲオルギイ・イワーノフなどの亡命作家や、ヨーロッパにおける亡命ロシア文化全般に関して、優れた先駆的業績を積み重ねてきた。これらの研究において諫早氏は、亡命作家が置かれた言語的・社会的状況と、芸術家・死・分身・自伝性・都市といった個別モチーフや表現手法の分析を巧みに組み合わせながら、深い洞察と新たな創見に満ちた作品論・作家論を展開している。
こういった亡命ロシア研究はさらに、個別の作品・作家研究のレベルを超えて、次第に都市空間における亡命ロシア文化と呼ぶべきより大きなテーマへと発展し、亡命ロシア人の都市としてのパリ、プラハ、ベルリンなどが次々に研究対象となった。なかでも最新の単著『ロシア人たちのベルリン――革命と大量亡命の時代』(東洋書店、2014年)は、ロシア革命後、両大戦間期のベルリンにおける亡命ロシア人の生活や仕事について、書店、出版社、芸術活動から、レストラン、キャバレー、カフェ、骨董屋にいたるまで、複雑に絡み合う糸をほぐして整理し、亡命ロシア人の都市としてのベルリンについて鮮やかな見取り図を提示しており、日本国内はもちろんのこと、国際的に見ても類書がほとんどない特筆すべき業績である。比較的コンパクトな啓蒙書の形をとってはいるものの、幅広い分野の膨大な資料の調査と長年の亡命ロシア文学研究の蓄積に基づいて書かれた本書は、抽象的な精神論に傾きがちな亡命文化論とは一線を画し、亡命者たちの生の実態を具体的に描き出すことに成功した。亡命ロシア研究に携わる者にとって、今後長年にわたって第一に参照すべき基本文献になるだろう。
(2)諫早氏は1991年に同志社大学に赴任後、2013年に定年退職するまで、同大学におけるロシア語教育の発展に大きく貢献した。とりわけ1993年に同大学言語文化研究センター教授に就任以降、第2外国語としてのロシア語教育に尽力した結果、国・公立、私立を問わず、現在の日本の大学では他に例を見ない、1000名を超える驚異的な数の受講生を擁するロシア語教育体制を作り上げた。その波及効果は広く関西圏全体に及び、同志社大学は関西圏のロシア語教育普及のための大きな原動力となっただけでなく、定職を持たない若手研究者たちにとって最大の文字通りработодательの役割を果たしてきた。これは全国の大学で受講者が減少の傾向にある現代日本のロシア語教育界にあって、一つの奇跡と呼んでもいいものだろう。
奇跡を可能にしたのは、諫早氏が『セメスターのロシア語』(白水社、1999年、服部文昭、大平陽一と共著)、『セメスターのロシア語読本』(白水社、2002年、服部文昭、大平陽一、イリーナ・メーリニコワと共著)といった優れた教材開発に尽力するとともに、学生たちの関心を正面から受け止める誠実で真摯な教師として信頼され、慕われたからである。「日本に諫早先生がもう数人いれば、日本のロシア語教育界全体の状況が薔薇色に描きかえられるのに」――選考委員長の脳裡には、おのずとこんな非現実仮定法による文章が浮かんでくる。
(3)諫早氏は、日本ロシア文学会の中核的な会員として、1997年から理事、監事、学会賞選考委員、学会誌編集委員、関西支部長などの要職を歴任した後、2009年から6年間にわたって副会長を務めた(さらに2011年からは、2年事務局長も兼任するという激務をこなした)。副会長の時代には会長とともに学会の改革に取り組み、常勤職にない会員の研究を奨励するために特別会計を新設し、長期在籍会員のために会費免除規定を設けるなど、様々な新機軸を導入することについて貢献した。諫早氏は研究者・教育者として優れているだけでなく、事務的な仕事における分析・計算能力に秀でた実務家でもあり、これらの新機軸は同氏の緻密な頭脳なしには実施することが困難であった。
受賞のことば(
PDF版
)
諫早 勇一
このたびは日本ロシア文学会大賞をいただき、身に余る光栄です。推薦してくださった方々、選んでくださった方々に厚く御礼申し上げます。
まず選考理由の2に関してですが、前任校の同志社大学が非常に多くのロシア語受講生を迎えることになった功績は、もちろん各々の個性を発揮されつつ、ロシア語教育に情熱をもって臨んでくださった先生方みなさんの功績であり、個人的なものではありません。ただ、1セメスターで文法の基礎を終えるという、新たなコンセプトの教科書づくりを主導してくださった服部さん、大平さんにはとりわけ感謝したいと思います。
つぎに受賞理由の1に関してですが、助手になった1974年頃、大学院生だった長谷見さんの提案でナボコフの『キング・クィーン・ジャック』のロシア語版を一緒に読むことになり、それを機にナボコフに興味を持つようになりました。ちょうどアメリカの出版社から、これまで入手困難だったナボコフのロシア語小説がつぎつぎに刊行され始めた時期で、新たに読めるようになるナボコフ小説に胸をときめかしたことを覚えています。そんな時代的な特権は自分たちの世代だからこそ持ちえたものでしょう。
しかし、ペレストロイカの時代以降、亡命文学は広くロシア文学者の関心を引くようになり、私は文学から文化へと関心を移して行きました。この分野ならまだ開拓の余地はあると考えたからです。ここでもまた若手に持ち場を追われる日が早くきてほしいと願っています。
最後に3の学会への貢献ですが、理事会に出席するだけだった私が学会に深くコミットするようになったのは、沼野さん、望月さんが会長だった6年間です。気心の知れたお二人にお力添えできることは楽しいことで、事務局を兼任していた2年間も含めて、学会活動に時間を奪われたという恨みはありません。どうか若い世代の会員のみなさんも、これからいろいろなかたちで学会活動に参加していただけたらと思います。
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