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意外性、そして偶然性 ――ロシアへの道――


諫早 勇一

1.はじめに:比較文学の教師からロシア語の教師へ

私は1979年(昭和54)年10月から、信州大学人文学部で比較文学の講座を担当していた。担当していた授業は比較文学概論、比較文学特論、比較文学演習などだったが、演習で用いるテキストはほとんど日本語で、大学院の授業でわずかに英語を用いる程度だった。卒論はレイモンド・チャンドラーや眠狂四郎など多彩だったが、ロシア文学で書いた学生は在職中一人しかいなかった。 

そんなある日、突然友人からロシア語の教員として同志社大学にこないかと電話をいただいた。信州大学ではロシア語を教えたこともなく、授業でロシア語のテキストを使ったこともなかったので不安もあったが、このまま日本文学を中心に比較文学を講じていても限界があると感じていたので、思い切ってロシア語教師に挑戦してみることにした。

しかし、採用の人事が進んでいたある日、突然人事担当の先生から電話をいただき、あなたのこの履歴ではロシア語を教えられるかどうか説得力がないので、非常勤講師歴があれば書き足してほしいと言われた。あわてて助手時代に経験していた東京の2つの私立大学での非常勤講師歴を書き足し、事なきを得たが、振り返ってみればそれほど私の履歴にロシアの痕跡は少なかった。


2.激動の時代:理科系から文科系に

1967(昭和42)年東大理Iに入学した私は、結局教養学科ロシア科に進学することになったが、ストライキの影響で進学したのは69年の11月、卒業が71年6月だったから、ロシア科に在籍したのは2年にも満たなかった。

また当時東大には学部にも大学院にもまだ露文科はなかったので、比較文学比較文化の専修課程に進むことになり、そこを74年の3月に中退しているから、大学院を終えるまでに履歴にロシアと書かれるのは、1年8か月だけだった。

なお、大学院受験のとき、もっとロシアにかかわりのある他の大学の大学院の受験を考え、それに向けた勉強をしていたが、秋に入試要項を取り寄せようとすると、6月卒業では他大学の大学院はどこも受験できないことがわかった。仕方なく東大の大学院を調べて、唯一私でも受けられそうな「比較文学比較文化」という課程の過去問を手に入れ、付け焼刃の勉強をしてなんとか合格できた。

私が第二外国語でロシア語を選択した時代は、「スプートニク・ショック」とも言われるほどソ連の科学技術への評価が高く、理Iでもロシア語履修者が15%を超えるような時代だった。ストライキが明けて進学志望届の変更が認められたとき、理科系の勉強への情熱を失っていた私は進学できる文科系の学科を探し、結局ロシア語を第二外国語にしていた縁からロシア科に進んだ。いま振り返ると、この決断が私の一生を方向付けたといえる。

大学院では木村彰一先生を指導教官に、少しでも文学に近づこうと修論ではゴーゴリを取り上げた(卒論はベルジャーエフ)が、論じたのは文学作品ではなく、彼の芸術論・文学論についてだった。私が博士課程に進学した頃は、ちょうど田中角栄が日ソの接近を図ろうとしていた時代だったので、72年に東大に露文科ができ、74年には露文の大学院が修士課程・博士課程同時にできた。そして、運よく私も74年に文学部の助手に採用された。


3.ナボコフとの出会い

助手になって間もない74年のある日、修士課程の院生だった友人から、Король, дама, балетъ》( McGraw-Hill社)というナボコフのロシア語小説が手に入ったので、一緒に読まないかと誘われた。『ロリータ』の作家ナボコフは知っていたが、彼のロシア語小説を目にするのは初めてだったので、とまどいながら読みはじめたが、読むと出だしからおもしろく、すぐに引き込まれていった。

1970年代前半は日本でナボコフの第二のブームが起きた時代で、英語小説では、『セバスチャン・ナイトの真実の生涯』(70)や『プニン』(71)が、ロシア語小説では『マーシェンカ』(72)や『青春』(74)が出たほか、評論『ニコライ・ゴーゴリ』(73)も刊行されている。

一方アメリカでは、ゴーゴリ研究者としても名高いミシガン大学のCarl Profferが、奥さんと一緒に71年にArdisという出版社を立ち上げて、ソ連国内では読めない作品を刊行しはじめ、ナボコフの作品も、74年にはМашенькаとПодвигъ、75年にはДар、76年には作品集Возвращение Чорбаとつぎつぎに刊行されて、われわれにも簡単に入手できるようになった。

私の場合、このようにナボコフのロシア語作品がたやすく手に入るようになった時代にナボコフ研究を始めたのは幸運だったといえる。また研究を開始してから3年ほどの間はナボコフ自身も存命で、同時代の作家を論じられる喜びを実感できた。こうして、それまで多くの人が英訳から論じていたロシア語作品を、ロシア文学者がロシア語をもとに論じられる時代がやってきた。

また世界的に見ても、当時ソ連では亡命文学自体が触れられることはなかったし、欧米でもナボコフのロシア語作品を中心に論じる人はまだ少なかったから、しばらくの間は未開拓な分野を耕せる喜びがあった。

しかし、1980年代後半のペレストロイカの時代になると、こうした寡占状態は一気に崩れ去る。86年以降ナボコフの作品はソ連でもつぎつぎと刊行されはじめて、ドリーニンのようなすぐれた学者が登場し、日本でもナボコフについて発言するロシア文学者が増えてきたのだ。そこで私は、かつてナボコフと並び称されたガズダーノフに関する論文(89ー91年)を書くなど、ナボコフ以外の亡命文学にも目を向けるようになった。


4.比較文学とのかかわり

1979年から信州大学で比較文学の講座を担当していた私は、大学の紀要には比較文学に関する論文を載せていた。思い出を一つ紹介すると、82年に私は「二葉亭とロシア文学――ゴーゴリを中心に――」という論文を書き、坪内逍遥が触れている二葉亭の最初の口語訳「ゴーゴリの或作の一断片」について新しい説を提唱した。従来は『検察官』の第5幕とされていたのに対して、『鼻』の冒頭ではないかと主張したのだ。残念ながら反響はなかったが、あるときキム・レーホ氏の著書《Русская классика и японская литература》(1987)を眺めていると、私の説が引用されていた。(今のようにネットで論文が読める時代ではなかったのに)田舎の大学の紀要まで見てくれる人がいるのかと感激した。

その後、半ば本気で日本文学者への転身を考えていた私は、ナボコフと三島由紀夫を比較する論文(84,85年)を書いたり、二葉亭の2番目の小説『其面影』をめぐって日本文学者を批判するような論文(88年)を書いたりしていたが、91年ロシア語教師として同志社大学に移ることになり、日本文学を中心にした比較文学からは離れることになった。


5.同志社大学とロシア語教育

同志社大学に移った私は、手探りでロシア語教育をはじめ、94年には(45歳にして)はじめてロシアを訪れ、95-96年には在外研究で1年間モスクワに暮らした。

そんな私にとって一つの転機になったのが、セメスター制の導入だった。セメスター制の導入に際して、各語部はどう考えているかと会議で問われた私は、ロシア語は1セメスターで文法を終えたいと考えていると答えた。この発言は失笑を買っただけだったが、実際京大に勤める友人はそのプランを温めていたので、そのプランをまとめて出版社に送ったところ、うちも1セメスターで終わる本をつくりたかったと言って、全面的なサポートを約束してくれた。

こうして出来上がった『セメスターのロシア語』(1999)は、例外をなるべくそり落として骨格だけを残した教科書で、ロシア語教育の専門家からはほとんど無視されたが、学生が1学期で習ったことを夏休み中に忘れてしまう現実を踏まえ、1学期の続きが2学期ではなく、1学期で習ったことに肉付けしていくのが2学期というコンセプトは新しかったと思っている。

ついで『セメスターのロシア語読本』(2002)も刊行できたが、「横にも置けるし、上にも積めるもの」、つまり『セメスターのロシア語』を使った後にも使えるし、並行して使うこともできるものという出版社の希望にうまく答えられたかどうかは自信がない。ただ、第2外国語は1年間でよいという学部が同志社でも増えているとき、1年間文法を学ぶという考え方は変えなければならないのではないか、半年で文法を一通り終え、次の半年はかなり自由度の高い授業をしてもいいのではないかと考えれば、この教科書も意義があったように感じられる。

私が受賞した理由の一つは、同志社大学がたくさんのロシア語受講生を得た(1学年1,000人以上)ことだが、これまで述べてきたこととの関係は正直言ってわからない。おそらく理由は別のところにあるのだろう。さらに、これまでの話は2年半前に退職した大学の過去の話なので、同志社大学の現状について語る資格は自分にはない。この話はそんなただし書きつきの話だと考えていただきたい。


6.ナボコフふたたび

信州から京都に移り住んだあと、京大のアメリカ文学の先生からお声がかかって読書会で報告することになり、ナボコフを研究するアメリカ文学者とも知り合うことができた。

その頃からロシア文学者とアメリカ文学者が一緒になって学会をつくろうという話があったが、それが実を結んで、1999年にはナボコフ生誕100周年を機に日本ナボコフ協会が設立され、その活動はいまもつづいている。

また当時、ロシア文学者とアメリカ文学者が協力して翻訳集を出そうという声が上がり、その成果は作品社から出た2巻本の『ナボコフ短篇全集』(第1巻は2000年、第2巻は2001年に刊行)となって結実している。

さらにこの2巻本は、2011年に増補改訂され、『ナボコフ全短篇』という1巻本となって刊行された。値段の高い本なのにすでに5刷を数えているのは、ナボコフの人気の根強さを示すものだろう。


7.亡命文学から亡命文化へ

ナボコフの翻訳も一段落し、同志社でのロシア語教育も教科書ができて軌道に乗ったころ、自分の研究にとって大きなターニング・ポイントがやって来た。大学から1年間の国内研究が許された2003年、北海道大学で客員教授に採用されただけでなく、応募していた科研費(「スラヴ世界における文化の越境と交錯」)が久しぶりに通ったのだ。

科研費は総勢10名の大所帯だったが、専門もばらばらなみなさんの発表を聞くのはとてもためになり、私の研究領域も中東欧における亡命ロシア文化に移っていった。また客員教授としてうかがった北海道大学では、ベルンシュタイン・コレクションやロシア亡命文学コレクション、戦間期の多数の亡命雑誌に触れることができ、とても勉強になった。

なお、この2003年には、同僚の先生が代表者となられた科研費「両大戦間のドイツにおけるゲルマンとスラブの文化接触とその歴史的意義」にも研究分担者として加わらせていただき、2005年には大学の紀要に「RUSSIAN BERLIN」という論文を書いたが、この論文が東洋書店の編集者の目に留まって、後に『ロシア人たちのベルリン―革命と大量亡命の時代―』(2014)という私の唯一の著書を出させていただくきっかけとなった。

科研費は幸いその後も何度か採択され(「RUSSIAN PRAGUE―両大戦間のプラハにおける文化の交錯の研究」、「近代ロシア文学における「移動の詩学」」、「ルースキイ・ミール――文化共生のダイナミクス」)、ローカルな場所(モラフスカー・トシェボヴァーやガリポリなど)や忘れられた亡命芸術家(ゲルマノワやマレーヴナなど)をテーマに、私なりに亡命ロシア文化研究を楽しんでいる。


8.学会活動と結び

多くの先生方のように、学会で報告をしたり、学会誌に論文を載せたりしながら職を得ていくという経験をしていないので、私は日本ロシア文学会の活動にそれほど真剣にはかかわってこなかった。

それが突然かかわるようになったのは、退職される立命館大学の先生から、関西支部選出の理事の後任にご指名を受けたことだった。そこで1997年から10年間理事を務めることになり、最後の4年間は関西支部長も務めて理事を退任した。

ところが2009年、沼野さんが会長に選出されると、望月さんとともに4年間副会長を務めることになり、その間に2年間は事務局も兼務した。院生を持たない、首都圏以外の人間でも事務局ができることを示し、勉強で忙しい若い人の負担を老人が少しでも負担しようという気持ちもあったが、どこまでお役に立てたかは心もとない。

望月さんが会長になられた後も、2年間副会長を継続し、昨年ようやく学会の役職を辞することができた。60代で6年間も務めるはめになったが、今後はもっと若い世代の方々が、新しい感覚で学会を活性化させていただきたいと願っている。

何ごとにも中途半端だった自分が、今回このような晴れがましい場に招かれたことはとても光栄なことで、これまで出会い、私を支えてくださった多くの方々に厚く御礼申し上げたい。

(いさはや ゆういち・同志社大学名誉教授,名古屋外国語大学中央図書館長・教授)
 
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