この度は思いも寄らずこのように立派な賞を頂戴し、他にもより適当な候補者がいるのにと、大変恐縮しています。推薦してくださった方と、大賞選考委員会委員長の諫早勇一先生と委員の皆様に心から御礼申し上げます。
講演を始めるにあたって、前もって2点お断り申し上げます。
第一点として、本日の話はゴンチャローフ研究に限定させていただきます。配布資料に私の業績を記載しましたが、単行本はすべて記載し、学術論文以下はゴンチャローフ関係に限定しました。
単行本
1.〔共編著〕『異郷に生きる 来日ロシア人の足跡』成文社 2001年 264頁
2.『白系ロシア人と日本文化』成文社 2007年 390頁
3. Pilsudskiana de Sapporo. No. 5. Bronisław Piłsudski in Japan. Saitama, Saitama University, 2008, vii+204 p.
4.〔編著〕A Critical Biography of Bronisław Piłsudski [Preprint]. 2 vols. Edited by Kazuhiko Sawada and Kōichi Inoue. Saitama, Saitama University, 2010, ii+8 illust.+490 p.; 8 illust.+498 p.
5.〔編著〕『埼玉大学教養学部 リベラル・アーツ叢書5 ポーランドの民族学者ブロニスワフ・ピウスツキの生涯と業績の再検討』埼玉大学教養学部・文化科学研究科 2013年 131頁
6.『日露交流都市物語』成文社 2014年 422頁[第10章 長崎 第1節 「鍵をかけた玉手箱」の国、日本ーゴンチャローフ『日本渡航記』についてー。第11章 ペテルブルグ ゴンチャローフと二人の日本人]
7.〔共編著〕『異郷に生きる VI 来日ロシア人の足跡』成文社 2016年 356頁
8.〔編訳〕『埼玉大学教養学部 リベラル・アーツ叢書9 日本在留のロシア人 「極秘」文書』埼玉大学教養学部・人文社会科学研究科 2018年 94+96頁
日露交流史については6、白系ロシア人については1、2、6、7、8、ポーランド人の民族学者ブロニスワフ・ピウスツキについては3、4、5をご参照ください。現在私はピウスツキの評伝を執筆中です。
第二点として、こういう場での話はえてして自慢話になりがちですが、ご容赦ください。
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私は1971(昭和46)年に大阪外国語大学ロシア語学科に入学しました。第一希望の大学ではなかったので、うれしくもない入学でしたが、そんな折に出会ったのが法橋和彦先生のロシア文学入門講義でした。この講義を聴講して、私はロシア文学の世界に魅入られました。講義はほぼ毎回時間超過、一年生向けの入門講義として先生はまったく手加減せず、情熱と迫力あふれる講義でした。時間超過はさておき、これこそあるべき大学の講義の姿だと私は今も思っています。講義は19世紀中心で、私はとりわけ〈余計者〉のテーマに興味を持ち、先生のアドバイスもあってイワン・アレクサンドロヴィチ・ゴンチャローフ(1812−1891)の『オブローモフ』について卒論を書きました。
1975年に私は早稲田大学大学院に進学しました。ちょうどこの年、東大を定年退官された木村彰一先生が早稲田に移ってこられました。先生は当時講談社が出していた世界文学全集のロシア関係を担当され、ご自身も『オブローモフ』を翻訳される予定でしたので、幸いにも私の指導教員になっていただきました。大学院でもゴンチャローフ研究を続け、『オブローモフ』について修士論文を書きました。学会誌に、Milton Ehre, OBLOMOV AND HIS CREATOR: The Life and Art of Ivan Goncharov (Princeton University Press, Princeton, New Jersey, 1973) の書評を書いたのが、初めて活字になったものです。博士課程時代に日本ロシア文学会で2回、「日本におけるゴンチャローフの受容について」、「二葉亭訳『おひたち』について」というテーマで発表し、それぞれ学会誌に執筆しました。『オブローモフ』は木村先生と灰谷慶三先生(北大)の共訳で出ましたが、その巻末の解説類を執筆しました。
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1991(平成3)年の秋、ドイツの古都バンベルグで、オットー=フリードリヒ名称バンベルグ大学文献学部スラブ文献学講座の主任教授ペーター・ティールゲン氏の組織のもと、没後100年を記念して最初の国際ゴンチャローフ会議が開催されました。私は北海道大学の大西郁夫氏とともにこれに参加しました。私にとっては外国で開かれる国際会議への最初の参加となりました。
折からこの時期、北大スラブ研究センターにゴンチャローフ研究者のエレーナ・クラスノシチョーコワ女史(ジョージア大学)が客員研究員として滞在中でした。女史は1987年にアメリカに亡命しましたが、日本のロシア史学界は彼女の出現に注目しました。女史の父(再婚)がアレクサンドル・クラスノシチョーコフだったからです。これはアメリカに亡命した後、1920〜1922年にソ連と日本の間の緩衝国として存在した極東共和国の初代大統領となった人物です。彼は1937年にスターリンの粛清により無実の反逆罪に問われて銃殺されました。クラスノシチョーコワ女史もバンベルグの会議に参加しました。女史は大西氏と私をまとめて "мальчики" と呼びました。当時私は38歳でした。
東西ドイツ統一の1年後という混沌期にこの会議を組織したティールゲン氏の功績ははかり知れず大でした。11か国から約40名に上る全世界のゴンチャローフ研究者をリストアップし、そのネットワーク作りをしたからです。従来活字でのみその名を目にしていた、ゴンチャローフ研究の中核をなすソ連の研究者たちが一堂に会し、報告し、討論する様は、壮観としか言い様がありませんでした。
大西氏は「長編小説『オブローモフ』の文体の特徴について」という報告をし、聴衆から賞賛の声が上がっていました。私は「日本におけるゴンチャローフ」というテーマで報告しました。ご存知のように、ゴンチャローフは1853年に遣日使節プチャーチン提督付きの秘書官として長崎に来航しました。その世界周航の模様を書き記したのが旅行記『フリゲート艦パルラダ号』です。私の報告は、日本側の露西亜応接掛の全権たちとその従者の日記に登場するゴンチャローフ像を紹介し、これらと『フリゲート艦パルラダ号』の記述とを対比しつつ、日露交渉の過程をたどったものです。幸い私の報告はロシア人研究者たちの興味を惹いたようで、質問がいくつか出ました。また報告終了後一人の見知らぬロシア人が近づいてきて、私の報告内容を新聞で紹介したいとして、その許可を求めてきました。私は承諾しました。そのロシア人はゴーゴリ研究で有名なユーリイ・マン(ロシア国立人文大学)であることを後で知りました。私の報告内容は以下の記事で紹介されました。
Манн, Юрий. Современные лики "традиционного" классика // Книжное обозрение. № 47, 22 ноября 1991 г. С. 7.
この会議で、ロシア本国のロシア文学研究において日本人研究者も貢献できる分野があるんだということを実感できたのが大きな収穫でした。
クラスノシチョーコワ女史を通じて私はペテルブルグのロシア科学アカデミー・ロシア文学研究所(以下、「プーシキン館」)のトゥニマーノフ氏、オルナーツカヤ女史らと知己を結びました。トゥニマーノフ氏はドストエフスキイとレスコーフの専門家、オルナーツカヤ女史はかつてツルゲーネフ、ドストエフスキイ、オストロフスキイ全集の編集に従事した、全集作りのスペシャリストです。彼女はドストエフスキイの作品やゴンチャローフの『平凡物語』、『オブローモフ』、『断崖』の長編3部作と旅行記の全草稿に数回ずつ目を通しており、さながら〈生けるコンコーダンス〉と言うべき存在です。初めてのアカデミー版ゴンチャローフ全集刊行のための作業グループが、この年にプーシキン館に創設されたばかりだったのです。
この折オルナーツカヤ女史から飛び出した質問が、「オッシリヤン」とは何か、というものでした。「オッシリヤン」は、『フリゲート艦パルラダ号』の長崎の個所で繰り返し出てくる日本の舟子たちのかけ声です。これまでレニングラードに来た何人かの日本人に尋ねたが、誰一人答えられなかったと言うのです。この問いに即答できなかったこと、また私の報告が彼らの関心を惹いたことが、全集編集作業に加わる機縁となりました。
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翌1992年の初夏、生誕180周年を記念してヴォルガ河に臨む作家の故郷ウリヤーノフスクで第2回目の、そしてロシアでは最初の国際ゴンチャローフ会議が開かれました。ゴンチャローフ歴史記念博物館は赤白のレンガ造りの建物で、かつてここにゴンチャローフ家が住んでいました。5人の館員はすべて女性で、ゴンチャローフの生涯と創作についてそれぞれ役割を分担して、資料の収集と調査活動に従事していました。いずれも魅力的な人たちで、生涯をゴンチャローフの一側面の研究と展示に捧げる姿に感銘を受けました。
会議の組織委員長はスラブ派の作家クルーピンがつとめましたが、会議の場での仕切り役はモスクワ大学のネズヴェーツキイ氏でした。プーシキン館からもゴンチャローフ・グループのメンバーたちが参加し、それぞれ全集編集作業の成果の一端を披露する実証的な報告を行ないました。モスクワ学派とペテルブルグ学派の対抗意識は、外野席から見ていてなかなか面白かったです。日本からは大西氏と私が参加しましたが、ゴンチャローフとゆかりの深い日本から来たというので、私たちは大いに珍重されました。私は「日本におけるゴンチャローフの受容」について報告しました。
会議の後のエクスカーションではロシア系フランス人の研究者ブルミストル氏の発案で、各人がゴンチャローフの作品中から "Немая сцена" を演じました。無言劇です。ブルミストル氏は『断崖』のライスキイ、オルナーツカヤさんは『断崖』の祖母、大西氏と私は長崎に来航したロシア人乗組員の子孫の方とともに、長崎での日露対面の場面を演じました。最終日は市内から4キロの距離にある「ヴィンノフカの林」という公園にバスで出かけました。『断崖』の舞台マリノフカのモデルとなった場所です。毎年作家の誕生日である新暦6月18日前後の日曜日にここで「全ロシア・ゴンチャローフ祭」が催されています。この会議でゴンチャローフ・グループのメンバーと親しくなれたのが、後から見ると大きかったと思います。
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全集の編集陣は外国在住のティールゲン氏、クラスノシチョーコワ女史、私を含む8名、作業グループはプーシキン館の館員9名で、トゥニマーノフ、オルナーツカヤの両氏はその双方を兼ねる、という体制でスタートしました。
全集は全20巻。これまでゴンチャローフ研究の定本となっていたのが8巻本作品集(1977−1980年)だったことを考えると、本全集のもつ意義は計り知れません。作家の習作期の詩や翻訳、評論、検閲官としてのコメント、長編小説執筆の準備段階の資料、厖大な量の書簡がここに初めて収められます。また『フリゲート艦パルラダ号』に詳細きわまりない注釈が付されたことも、全集のいま一つの〈目玉〉と言えます。第2巻が『フリゲート艦パルラダ号』の本文、第3巻(2000年)は全847頁で、その大部分が注釈とヴァリアントに充てられています。この注釈作成に私は加わったのです。
もう一つの僥倖は、1994−1995年にトゥニマーノフ氏が北大スラブ研究センターに滞在したことです。これによって氏と定期的に連絡を取ることができました。また1995年の初春には氏と木下豊房先生(千葉大)、それに私の家族も一緒に長崎へゴンチャローフ調査旅行に出かけました。豪雨のなか、幕末以来ロシアと関わりの深い稲佐の悟真寺で、今は亡き木津義彰師から話をうかがったことは楽しい思い出です。長男がグラバー邸の池にはまるというおまけまで付きました。いやそれよりも、あの「オッシリヤン」の謎がこの旅行で解けたのです。長崎歴史文化協会に郷土史家の越中(えっちゅう)哲也氏を訪ねた折、この永年の疑問点を口にするやいなや、部屋の向こう側で誰かが一声叫びました。「ヤッシリヨヤサー」と。これは元来長崎地方の近海で鯨を追い込むときの漁師のかけ声だったのです。もちろんこれも注釈に入れました。
同年のゴールデンウィークには私は伊豆の下田と西海岸の戸田(へだ)に出かけました。プチャーチンが長崎での交渉の後、ディアーナ号1隻で伊豆半島に再来航し、安政の大地震に遭遇して乗艦を失ったものの、ついに日露和親条約を締結したことはよく知られています。ゴンチャローフはパルラダ号を下船、帰国していましたが、後にディアーナ号乗り組み士官たちからの聞き書きで彼らの未曾有の体験を『フリゲート艦パルラダ号』の終章「20年を経て」のなかで再現しました。伊豆旅行はこの章の注釈作りに役立ちました。プーシキン館館員への説明のために長崎港、下田港、戸田港周辺の地図と写真も不可欠でした。「琉球諸島」の章のために沖縄の歴史のにわか勉強もしました。
1999年に私はプーシキン生誕200周年記念国際会議でペテルブルグを訪れました。その際プーシキン館3階にある「ゴンチャローフ室」で最後の打ち合わせをしました。私の息子が長崎で池にはまった話は、プーシキン館で知れ渡っていました。私はこの時点で出来上がっていた分の注釈の草稿を受け取り、帰国後に目を通して正誤表をロシアに送りました。彼らが見落としていたミスをいくつか発見したのが私の自慢です。
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注釈はレアリア(реальный комментарий)と歴史・文学(историко-литературный комментарий)の2面から執筆しました。
私は『フリゲート艦パルラダ号』の日本関係の部分、つまり「1853年末と1854年初頭の日本滞在中のロシア人」、「日本滞在中のロシア人」、「琉球諸島」、「20年を経て」の4章の注釈を他のメンバーとともに担当しました。これは大別して3種類の文献を駆使し、ゴンチャローフの記述と比較対照することによって成り立っています。まず第一はゴンチャローフ以前に、あるいは彼と同時に日本を訪れたロシア人の記録です。例えば、1804年に長崎に来航したクルウゼンシュテルンの『世界周航記』、1811年に国後島で捕縛されたゴロヴニーンの『日本幽囚記』、プチャーチンの「上奏報告書」、パルラダ号とともに来航したスクーナー船ヴォストーク号の艦長リムスキイ=コルサコフの日記と両親宛の書簡集などです。第二は長崎出島のオランダ商館に滞在した外国人の記録です。例えば、ドイツの博物学者ケンペルの『日本誌』、スウェーデンの医師にして植物学者ツンベルグの『日本紀行』、ドイツの医師シーボルトの『日本』、オランダ商館長ドンケル=クルチウスの覚え書などです。第三に日本側の文献。江戸時代およびそれ以前の日本、長崎、伊豆、沖縄の風俗習慣や社会制度、日本の人名や地名、ゴンチャローフ以前に日本に来航した外国人に関わる文献もここに入ります。
以上のうち私が担当したのは、第一の範疇ではプチャーチンの「上奏報告書」、リムスキイ=コルサコフ海軍大尉の日記と両親宛の書簡集です。リムスキイ=コルサコフは有名な作曲家ニコライの兄ヴォインです。彼の日記と書簡集はハバロフスクで出版されたので、プーシキン館のメンバーには知られていなかったのです。第二の範疇ではオランダ商館長ドンケル=クルチウスの覚え書を日本語訳で用いました。第三の範疇はすべて私が担当しました。作業の原則としては、当然のことながら、日本側の史料、情報を最優先し、日本語、英語、オランダ語(の日本語訳)の文献を主として用いました。これらの作業はかなりの時間と労力を要しましたが、世界中でこの作業をやるべきは自分だという意識がありましたので、さほど苦にはなりませんでした。
作業の出発点をなしたのは、高野明・島田陽共訳『ゴンチャローフ 日本渡航記』(雄松堂書店、1969年)の故高野先生の訳注です。高野先生は元早稲田大学図書館の司書で、わが国における日露交流史研究の先駆者です。この訳注は日露双方の情報を豊富に盛り込んだもので、大いに役立ちました。次に利用したのは、アメリカの故ジョージ・レンセン氏の『1852−1855年のロシアの日本遠征』(Lensen G. A. Russia’s Japan Expedition of 1852 to 1855. University of Florida Press, Gainesville, 1955)です。レンセン氏はフロリダ州立大学の教授で、ロシア・アジア関係史の専門家です。これら先人の仕事によって、露西亜応接掛4名のうち副全権の川路聖謨(としあきら)の『長崎日記』や、同じく全権員で儒学者古賀謹一郎の『西使日記』などを効果的に利用することができました。これら以外に私は新たな史料も発見し、利用することができました。例えば、古賀の随員の米沢藩士窪田茂遂(もすい)の『長崎日記』、佐賀藩士千住(せんじゅ)大之助の長崎出張記録『西亭私記』、全権員に随行した洋学者箕作阮甫(みつくりげんぽ)の『西征紀行』、『大日本古文書 幕末外国関係文書』などの古文書類などです。当時ロシアはユリウス暦、日本は太陰暦だったので、暦の換算には随分神経を使いました。
注釈はまず日本語で作成し、推敲した後ロシア語に訳しました。1995年春に第一稿が出来上がりましたが、それを初めてトゥニマーノフ氏に見せた時のことは忘れられません。北大スラブ研究センターの薄暗い部屋の中、いつもはとぼけた表情でジョークを連発する氏とはまったく別の人間がそこにいました。張りつめた空気のなか短い説明の言葉をまじえつつ草稿に赤を入れていくトゥニマーノフ氏の横顔を見ながら、これがこの人の正体かと思いました。氏の帰国後は郵便、ファクス、Eメール、あるいはペテルブルグへの旅行者を通じてプーシキン館とやりとりしました。私の注釈がすぐには合格点をもらえなかったことも白状しておかねばなりません。補訂版を送るたびにペテルブルグからは心のこもった返信と的確で鋭い質問が投げ返されてきました。例えば「琉球諸島」の章に「豆でつくった白いねり粉の塊のようなものを、その場で焜炉(こんろ)で焼いて売っていた。」というくだりがあります。「豆でつくった白いねり粉の塊のようなもの」(какое-то белое тесто из бобов)は豆腐のことですが、これを私が和露辞典に従って「大豆製のコテージチーズのようなもの」と説明したためにプーシキン館では納得がいかず、おまけに豆腐とともにゴンチャローフが用いた動詞 "поджаривать" が「焼く」または「フライにする」の意味になり、ロシアではこういう料理はありえないという質問が返ってきました。琉球では行事の時によく揚げ豆腐を作ったといいます。私の説明の典拠も執拗なほどに尋ねられました。
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私が付した注釈の例をいくつか紹介しましょう。川路聖謨は日記中でゴンチャローフのことを「謀主」、「軍師」と呼んでおり、作家がプチャーチン提督の〈知恵袋〉として交渉に積極的に参加していたことが分かります。これは『フリゲート艦パルラダ号』ではうかがい知れない事実です。全権員が初めてパルラダ号を訪問するにあたって乗組員は歓迎の準備に没頭していましたが、他方日本人たちの日記によれば、これは日本人による最初の外国船訪問であり、全権員はことによればそのまま外国に連れ去られるのではないかという危惧を抱いて、決死の覚悟で乗り込んだのです。千住の日記によると、古賀は鈍刀をあらためて研磨したとあります。また川路の日記によれば、露艦が長崎を出港する前日に日本側全権員の設けた送別の午餐会の席上で、ゴンチャローフが酩酊してユーモラスな振る舞いをしましたが、これは彼の旅行記には出てきません。
日本側の史料との対比によって、ゴンチャローフたちの誤解も指摘することができます。例えば、ロシア人は全権員の長崎到着の遅れに苛立ち、既に到着したのを隠しているのではないかと疑いましたが、日本の史料を読めばそれが誤解だったことが分かります。江戸から長崎まで片道1500キロ、40日間にわたる旅は過酷なもので、川路も窪田茂遂も身分の上下を問わず旅の苦労と疲労を訴えています。また長崎西役所でロシア使節団と全権員の最初の対面を行った際、出た日本茶に茶殻が混じっているのにゴンチャローフは呆れていますが、これも彼の誤解で、茶柱は吉事の兆とされ、故意に入れたのです。さらに作家は宴会の席上で川路が女性談義に移ったことを紹介し、「日本人たちはあらゆるアジア民族と同様に官能に耽って、その弱点を隠そうともせず、また責め立てようともしないのである。」と書いていますが、他方川路自身は同一の場面について、「異国人、妻のことを云えば泣いて喜ぶという故に」江戸に残してきた自分の美人妻の話をしたのだと記しており、この点に関しては双方互いに責任転嫁を計っているようです。
逆にゴンチャローフの慧眼をも指摘することができます。彼は日本側から知らされた第12代将軍徳川家慶の死亡の日付を信用していません。将軍が没したのはユリウス暦1853年7月15日で、パルラダ号の長崎到着は8月10日、長崎奉行がロシア使節団に将軍の訃報を伝えたのはその2か月後の10月10日で、死亡日を8月14日としたのです。ゴンチャローフの目はさすがに日本人の本質を見抜いていました。幕府は将軍の薨去を諸外国に知られて足許を見すかされることを恐れ、また国内の人心の動揺を来すことを懸念したのです。
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このような作業を始めるにあたって、実は私自身に迷いがありました。『フリゲート艦パルラダ号』はとどのつまり作者の想像力を濾過した文学作品であり、それにレアリアを羅列した注釈を付けることがいかほどの意味を持つのか、という疑問です。だがプーシキン館のメンバーの仕事ぶりを見て、この疑問は一掃されました。個々の事実へのこだわり方、様々な文献を渉猟し引用するその仕方が、徹底の度合いにおいて私の予想をはるかに凌駕していたのです。ここにはソ連時代から今日まで脈々と引き継がれてきた、文学全集編集の揺るぎない伝統が強く感じられます。プーシキン館の若いメンバーたちは、実際の編集作業を通じてこのような方法論を文字どおり頭と体にたたき込まれていくのでしょう。実にうらやましい限りですが、その一端になりと触れえたのは誠に幸せなことでした。
残念なことに、トゥニマーノフ氏が2006年5月に心臓麻痺で急逝されました。享年68歳でした。我々は70歳のお祝いの文集を用意していたのですが、それが追悼文集になってしまいました。この文集に日本からは木下先生と望月哲男氏、私が執筆し、安藤厚氏、木村崇氏、望月氏と私の家族の写真が掲載されています。
オルナーツカヤさんも2016年4月に亡くなりました。ゴンチャローフ・グループを去った人もいます。残ったメンバーもそれぞれ年を取りましたが、新たなメンバーを加えつつ5名で長丁場の仕事に引続き取り組んでいます。あと10巻、プーシキン館のゴンチャローフ・グループ(www.goncharov.spb.ru 参照)に心からの声援を送ります。
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2017年に私は図らずもゴンチャローフ記念国際文学賞を受賞しました。これはウリヤーノフスク州とロシア連邦作家同盟主催のもとに2012年から毎年ウリヤーノフスク市で行なわれているものです。ロシアのベテラン作家、40歳以下のロシアの新進作家、ロシアと外国のゴンチャローフ研究者の3部門でそれぞれ賞が授与されます。賞金はベテラン作家と研究者部門がそれぞれ50万ルーブル、新進作家部門は30万ルーブルです。
選考の経緯は分かりませんが、多分プーシキン館のゴンチャローフ・グループのメンバーが私を推薦してくれたのでしょう。彼らも2013年にグループで受賞しています。またグループの一人サーシャ・ロマーノワさんは超人的な努力によって『I. A. ゴンチャローフ 文献目録(1832−2011年)』(Романова А.В. (сост.) И. А. Гончаров: Библиографический указатель (1832-2011). СПб., 2015)を完成し、2016年に受賞しています。私は外国人としてはハンガリー人、ドイツ人研究者に次いで三人目の受賞者となりました。
ゴンチャローフ国際会議はその後も現在に至るまで5年ごとにウリヤーノフスクで開かれており、私は1997年以来20年ぶりの参加となりました。会議の最終日に市内の書物会館で授賞式が行なわれました。想像していたよりも盛大な授賞式で、式典の主役はモロゾフ州知事とはいえ、自分のスピーチは緊張しました。自分の来し方を、今回はあえてネイティブ・チェックを受けず、自分でロシア語で作文、推敲し、それを頭に入れて式に臨みました。ベテラン作家部門はヤクーツク在住の歴史作家ニコライ・ルギノフ氏、新進作家部門はモスクワのユーリイ・ルーニン氏、研究者部門はモスクワ市立教育大学・モスクワ大学教授イリーナ・ベリャーエワ女史と私が受賞しました。ベリャーエワ女史はツルゲーネフ研究が中心ですが、『長編作家I. A. ゴンチャローフ ダンテとの対比 モノグラフ』(Беляева И.А. И. А. Гончаров-романист: Дантовские параллели: Монография. М., 2016)を上梓されたのです。
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最後に宣伝で恐縮ですが、会員の皆様ご勤務の大学の図書館に是非『ゴンチャローフ全集』を入れてくださるようお願いします。1997年に第1巻が刊行されてから今日まで第1〜8、10、15巻が出ました。例えば第3巻には、ロシア外交史料館で発見された作家の手になるプチャーチン名義の公文書24通が収められています。日露交流史に興味をもつ者であれば、これらの文書を日本側の史料と比較対照することによって数本の論文が書けること間違いありません。また〈文学と検閲〉というテーマに関心を抱く研究者にとっては、第10巻が貴重な資料として役立つでしょう。
最後になりましたが、既にお名前を挙げた以外の先生方にも大変お世話になりました。とりわけ大阪外語時代の武藤洋二先生、早大大学院時代の安井亮平先生、藤沼貴先生、柳富子先生、「〈ロシアと日本〉研究会」と「来日ロシア人研究会」の中村喜和先生、長縄光男先生には計り知れぬ学恩を被っています。心から感謝申し上げます。
今後はこれまでの研究を継続しつつ、2016年10月に「来日ロシア人研究会」が終了しましたので、近い将来に日露交流史関係の新たな研究会を立ち上げて、幾分なりとも若手の研究者に還元できればと考えています。
ご清聴有難うございました。
(さわだ かずひこ)