2月8日未明、安井侑子(渡辺侑子)さんが80歳の生涯を閉じた。
1985年から17年間、神戸市外国語大学で教鞭を執られていたころ、ご縁があって家族ぐるみの親しいお付き合いをさせていただいた。
当時、彼女の口から語られる1960年代モスクワの思い出話は私をわくわくさせたものだ。1958年、原水爆禁止日本協議会理事であられたご父君安井郁氏がモスクワで国際レーニン平和賞を受賞された時、通訳として同行された侑子さんにフルシチョフが「貴女は何を勉強したいのですか?」と尋ね、「ロシア文学です」と答えたところ、即座にモスクワ大学留学が決まったという。
翌59年から7年間彼女が学生生活を送ったモスクワは、ちょうど第一次雪解け期の真っただ中にあった。エウゲニー・エフトシェンコを始め、ブラート・オクジャワ、ベラ・アフマドゥーリナ、アンドレイ・ヴォズネセンスキーら若い詩人たちが次々と台頭して世間を熱狂させた時代でもあった。彼らと親しくなった侑子さんは共に徹夜でモスクワの町を闊歩し、ウオッカを何本も空けては(彼女はお酒に強くはなかったけれど)夜を徹して語り明かし、詩を朗読し合った。モスクワ大学の講堂で開かれたある有名な「詩の夕べ」について彼女は次のように回想している。「会場をつつむ熱気、興奮は今も伝説となっている。大講堂は立錐の余地もなく、切符を買いそびれた私は、友人の作家アクショーノフに助けられて舞台の袖に座り、ベラ・アフマドゥーリナ、ブラート・オクジャワといった綺羅星のごとき詩人たちの朗読に酔いしれた」(「追悼 エウゲニー・エフトゥシェンコ」の記事より)。「日出る国」から来た美しい「ユウコ」は誰からも愛され、大切にされたに違いない。これらの日々については『青春―モスクワと詩人たち』(1987 晶文社)に詳しい。
帰国後出版された数々の翻訳――ショーロホフ、オクジャワ、アクショーノフ、ブルガーコフ、アフマドゥーリナ、グリーン、そしてマンデリシュターム――は彼女のロシア文学翻訳家としての地位を確固たるものにし、研究者のみならず、ロシア文学愛読者にも大きな貢献を果たした。また、アフマートワ、ツヴェターエワらロシア女流詩人の日本への紹介も彼女の大きな仕事のひとつである。特に『ペテルブルグ悲歌 アフマートワの詩的世界』(1989 中央公論社)は、我が国で最初にこの詩人を深く掘り下げた渾身の書と言っても過言ではないだろう。
1988年にヴォズネセンスキーが上洛し、同志社大学で「詩の夕べ」が開かれた時、旧友である侑子さんが通訳を務め、参加者全員で素晴らしい時間を共有することができた思い出は忘れられない。
私は彼女のことを少しふざけて「家来のいないお姫様」と呼んでいたが、この呼び名は彼女も結構気に入っていたようだ。実はお姫様というのは根拠のないことではない。彼女のご母堂は、元九鬼水軍で後の摂津三田藩藩主の孫娘であられるので、侑子さんは九鬼家末裔のお姫様なのである。
昨年11月に逗子の病院にお見舞いに伺ったのだが、ベッドで笑みを絶やさず穏やかに話す彼女は、変わらず永遠に美しくたおやかな「お姫様」であった。
(2019年2月16日)
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