第3回国際オクジャワ学会参加記

2005年3月18日―20日、ペレジェルキノ
ロシア語プログラム(一部)はこちら。(PDF)
沼野充義(東京大学)


ペレジェルキノのオクジャワの家・博物館
ペレジェルキノのオクジャワの家・博物館



 2005年3月にモスクワ郊外のペレジェルキノで、第3回国際オクジャワ学会が開催され、主催者のオクジャワ未亡人、オリガ・ヴラジーミロヴナの招待を受けて参加する機会に恵まれた。この学会は吟遊詩人として、また作家として名高かったブラート・オクジャワが1997年に亡くなった後、未亡人を中心に創設されたオクジャワ基金によって開催されているもので、第1回は1999年に、第2回は2001年に開催された(開催地は一貫してペレジェルキノの「作家の家」。どちらの学会についても、報告集が後に出版されている)。じつは私は生前からオクジャワとはいろいろな縁があったため、第1回からすでに招待されていたのだが、そのときはどうしても都合がつかず、涙をのんで欠席。日本からのメッセージを俳優・歌手の山之内重美さんに代読していただいた。その記念すべき第1回には、日本語でオクジャワの歌を歌って喝采を浴びた山之内さんのほか、安井侑子さん、宮澤俊一さんも出席され(宮澤さんはそのときすでに体調が思わしくなく、帰国後まもなく亡くなられたので、あれが最後のロシアだったはずだ)、当時ロシア国営ラジオ局「ロシアの声」に勤務していた毛利公美さんも取材に行っている。オクジャワの日本との並々ならない縁の深さが、こういったことからもよくわかる。

 第2回には日本からは誰も参加せず、そして私は今回の3回目で三度目の正直、ようやく初めて参加することができた。学会、いや正確にいうと「学術会議」(ナウーチナヤ・コンフェレンツィヤ)と銘打っているだけに、全体としてはアカデミックな色彩の強いもので、文学研究者による報告が大部分を占めていたのは当然だが(オクジャワのような現代詩人がすでにこのように学術研究の対象になっているということには、ちょっと感慨がある)、その一方で、詩人のエヴゲニー・レインや小説家のアンドレイ・ビートフのような、生前彼と付き合いのあった文壇の大御所が参加しているところが、やはりオクジャワを偲ぶ会らしくもある。もっともビートフは開会の辞を述べるはずだったのだが、出席できなくなり、代わりに急遽ビデオでメッセージを送ってきた(その他、プログラムにはイスカンデルやアフマドゥーリナの名前もあったのだが、彼らも結局欠席だったのは残念)。

 学会は3月18日の午前、まずペレジェルキノの「オクジャワの家・博物館」(オクジャワがダーチャとして使っていた家で、現在は、博物館となり、生前の様子がわかるように展示されている)に集合、博物館を見学したあと、貸し切りバスで「作家の家」に移動(同じペレジェルキノの中とはいえ、かなりの距離があり、まだ雪が深く積もっているので、徒歩ではとうてい移動できない)、正午から報告が始まり、「作家の家」に皆泊まりこみで、まるまる3日間も行なわれた。報告数は全部で30本を超えていたのではないだろうか。印象に残っている報告としては、オクジャワの個性や歌を、例によって大づかみな世界観の観点から滔滔と論じたゲオルギー・ガーチェフ、オクジャワとトゥイニャーノフの歴史小説を比較したスヴェトラーナ・ボイコ、ユンクを援用しながらオクジャワにおける詩人の「原型」を論じたニーナ・マルィギナ、マンデリシュタームとオクジャワにおける抒情的主人公を比較したマリヤ・ゲリフォンド、オクジャワの個性と運命の「神話学」に迫ったヴラジーミル・ノヴィコフ、バフチンを援用しながらオクジャワの抒情詩における「グロテスク」について問題提起をしたサムソン・ブロイトマンなどのものがあった(この第3回の学会の報告もすべてまとめて近く出版される予定)。



「作家の家」のオクジャワ学会会場
「作家の家」のオクジャワ学会会場


 私自身は――最近のロシアの学会ではよくあることだが、「国際」と銘打ってあるにもかかわらず、ただ一人の外国人として――「日本におけるオクジャワの受容」というテーマで報告をした。この手の「〜の日本における〜」といったものは、外国の学会に呼ばれた日本人が手軽に、あるいは苦し紛れにしばしば取り上げるテーマで、我ながらあまり感心しない芸のないものだったが、それでも1960年代の新しいソ連文学の担い手として登場したオクジャワが、1970年代にかけて半ばディシデント的非公認の「吟遊詩人」と見なされ、1980年代後半にはペレストロイカの時代の希望の担い手となっていった、という変遷が日本における受容にもくっきりと現れていることを改めて確認でき、自分でもそれなりに面白かった。いや、私のより大事な貢献は、1989年にオクジャワがただ一度来日したとき、東京大学で行なった講演の録音を探し出してテキストに起こし、オリガ未亡人に手渡したことだったかもしれない。

 オリガ未亡人を助けてきばきと働き、これだけ大規模な学会の運営を担ったオクジャワ博物館の若い研究員エカテリーナ・セミョーノワさんや、オクジャワ基金のイリーナ・ブイロワさんなどの姿も鮮やかだった。ロシアの文学はじつはあまり表に出ることのない、こういう人たちに支えられているのだ。個人的にはオクジャワの遺産を受けつぎ、次の世代に伝えようと努力しているオリガ未亡人の元気な姿を久しぶりに見られたことも嬉しかったが(実際、ポストモダン以降の若者たちにとって、オクジャワは「過去の人」になりつつある)、私にとって、今回、一番大きな贈り物だったのは、オクジャワのご子息が空港まで私を車で迎えにきてくれたことだった。おかげで私は彼と長いこと個人的に話をすることができ、オクジャワが家庭でどんなパパだったのかも直接聞かせてもらえたのだった。オクジャワの息子は音楽家だが、あまり人前に出たがらない人物で、学会の会場にも一度も姿を現さなかったくらいなのだが、その彼が私をわざわざ迎えに来てくれたのは、オリガ未亡人の特別な配慮によるものだったようだ。そのとき彼から聞いた話にはとても愉快なエピソードもあったのだが、残念ながら、ここでご披露するわけはいかない。

 ともあれ、現代の詩人がこのように「学術的」研究の対象になり、盛大な学会まで開かれるというところには、やはり、ロシア人の文学に対する態度がよく現れている。3日間もオクジャワの詩や小説についての報告が続き、出席者はみな熱心に聴き、熱く語っていたのは(もちろん、居眠りしている者など、一人もいない)、いまから思うと、なにやら夢のようでもある。



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