国際ナボコフ学会に参加して

毛利公美(北海道大学スラブ研究センター21世紀COE特任研究員)


写真:ナボコフ家の住んだ家に掲げられた記念板

ナボコフ家の住んだ家(現在ナボコフ博物館が入っている)に掲げられた記念板



 2005年7月21日から23日の3日間、ペテルブルグのナボコフ博物館で、国際ナボコフ学会が開催された。会場となったナボコフ博物館(Музей В.В.Набокова)は、作家ウラジーミル・ナボコフの生家で、3階建のうち1階部分のみが私設博物館として公開されている。

 概してロシアで私立の博物館の立場は弱く、昨年ナボコフ博物館はペテルブルグ市から要求された多額の税金が払えず閉鎖の危機にあった。ナボコフの息子ドミートリや世界のナボコフ研究者たちの援助とタチヤナ・ポノマリョヴァ館長をはじめとする博物館の人々の努力で最悪の事態は免れたものの、今でも財政的にはかなり厳しい状態が続いている。なんとか状況を打開しようと、国営博物館としての認可を求めて奔走しているらしいが、国営博物館として認可されるには一定数以上の展示品の数をクリアしなければならず、その鍵を握る息子ドミートリは税金問題をはじめとする国の対応に腹を立てて展示品の提供を拒否しているらしい。

 今年の学会はリハチョフ財団の後援を受けて開催されたが、学会本体の運営に関わる部分以外の資金は博物館が捻出しなくてはならない。3日間の学会が終わった翌日に企画された、ロジジェストベノ、ヴィラ(ナボコフの記憶の原風景ともいえる、ペテルブルグ郊外の別荘)へのバス・ツアーも、参加者が定員を割るとバスのチャーター代が払えないというので、タチヤナは暗い表情をしていた。安い給料で献身的に働いているに違いない彼女の疲れた顔を思い出すと胸が痛む。

 シンポジウムの会場は1階の奥にある長方形の部屋で、かつてはナボコフ家の図書室として使われていたところだが、文豪の書斎が往時のままに再現されたドストエフスキーやトルストイなどの博物館とはだいぶ趣が異なり、ナボコフ家の家具や書籍が残っているわけではない。美しい寄木細工の天井とどっしりした古い書き物机、年代もののタイプライターと、壁際のいくつかの展示物を除けば何もない部屋である。学会はそこに椅子を80脚ほど並べて行なわれた。数日間にわたって行なわれる学会の常で、2日目、3日目は次第に人が減ったが、初日は椅子の半数以上が埋まる盛況ぶりだった。



写真:学会の聴衆

学会の聴衆(右下は国際ナボコフ協会会長バートン・ジョンション氏)



 報告の数は26本で、他にポスター・プレゼンテーションが4本あった。タチヤナによると、今回は他にも多くの報告希望者があり、選考によって絞らざるを得なかったということである。ロシアの学会は運営がいいかげんなことが多く、当日行ってみないとプログラムすらわからなかったり、キャンセルする者がたくさんあったり、報告者が時間を守らず延々と話し続けたり・・・、というようなことも珍しくないが、ナボコフ博物館の場合は割合にきちんと運営されている。ただ、報告の時間が前もってはっきり指示されず、運営側に問い合わせても、人によって20分と言ったり30分と言ったりするので、原稿を書くときにとまどった。実際に会が始まってみると、一人当たりの持ち時間は30分で、報告後に残った時間を質疑応答にあてるということだった。中には時間をオーバーして質疑応答全くなしという人もいないわけではなかったが、概してこのやり方はうまく機能していたようだ。

 26人の報告者のうち海外からの参加者は10人で、日本からが3名、アメリカからが7名である。とはいえアメリカからの報告者7人のうち、D. B. ジョンソンとS. ブラックウェルの2人を除く5人はロシア系ディアスポラだから、実質的にはロシア人が21名ということになる。報告の言語も、申し込む際には英語でもロシア語でもよいと言われていたが、実際は二人の「本物の」アメリカ人を除き、全員がロシア語で報告した。3年前の2002年に同じナボコフ博物館で国際ナボコフ学会が開かれた際には、参加者の国籍も多様で、英語での報告が多く、ロシアの聴衆の便宜を図るために英露同時通訳のブースが設けられ(機械の調子が悪く2日目には撤去されてしまったとはいえ)、名実共に「国際学会」の様相を呈していたが、今回はロシアの学会に何人か海外からのゲストが参加したという感じである。

 ナボコフ学会の後に訪れたベルリンで行なわれたICCEES世界大会でも、ロシア以外の国からの参加者としてロシア人が報告するケースが非常に多く見られた。木村崇氏による学会レポートにある通り、近年ロシアからの「頭脳流出」が続いており、すぐれた研究者はこぞって職を求めて海外に移住している。かつては、ロシア人の話す英語は訛りが強いという印象だったが、現在海外で活躍しているロシア系ディアスポラ研究者には、流暢な英語を使いこなすバイリンガルも多い。ベルリンで会ったアメリカ人のある若手研究者は、欧米の大学のポストは今後ロシアの研究者にどんどん奪われ、ただでさえ逆風が強いロシア関係の就職状況はますます厳しくなるだろうとぼやいていた。

 ICCEES世界大会は千人規模の世界的な大会だが、ナボコフ学会はそれと対照的に数十人程度の小規模な集まりである上に、半数以上が常連であり、なじみの者同士の集まり特有の親密な空気が流れている。そのロシアのナボコフ研究者ファミリーのお父さん役を務めるのは、ペテルブルグ出身で現在はウィスコンシン大学マディソン校で教えているアレクサンドル・ドリーニンである。彼はほとんど全ての報告の後に手を挙げて立ち上がって発言し、圧倒的な存在感を示したが、それでいて権威的な感じを与えないのは、茶目っ気のある氏の人間性や、ナボコフや文学について語るのが楽しくてしかたないという気持ちが、コメントの端々に感じられるからだろう。愉快なドリーニン・パパ率いるナボコフ学会は和気あいあいと進んだ。

 しかし、仲間意識は時に、身内に対するえこひいきやはずれ者に対する阻害の土壌にもなりかねない。初日の午後に行なわれたドリーニンの報告で、疑わしい先行研究論文の筆者としてこてんぱんにやっつけられたヴァジム・スタルクは、1998年にナボコフ博物館がオープンしたときの初代館長だった。スタルクの経営者としての手腕や、研究者としての仕事を批判する声を以前からよく聞いたが、結局、彼は何年か前に館長の座を追われ、かつてナボコフ学会で必ず見られたスタルク本人の姿は、今回はみられなかった。たしかにスタルク時代よりも今の方が、博物館のあり方も研究の内容もレベルが高いことは、誰も疑わないだろう。しかし、根っからの悪人ではなかっただけに、居場所を失ったスタルク氏が少々気の毒である。

 ゴシップはそれくらいにして、肝心のドリーニンの報告の内容にも簡単に触れておこう。いまやロシアのナボコフ研究の第一人者となったドリーニンの報告は、やはり26本の報告の中でも、最も印象的なもののひとつだった。題材として取り上げられていたのは、ナボコフが1937年(ドリーニンの説によれば、実際は1939年の終わり)に書いたとされているツヴェターエヴァのパロディ詩である。ドリーニンはナボコフの真の意図が、ツヴェターエヴァではなく、1930年代末に書かれたスターリン賛美の詩をパロディにすることにあったことを、現在では忘れられた当時の詩を引用しながら、鮮やかに読み解いてみせた。亡命文学を本国から切り離されたものとして扱うのではなく、同時代のソ連の文学や社会のあり方と密接に繋がりをもつものとしてとらえなおし、亡命社会の資料よりはむしろソ連の出版物を用いてその関連性を検証するという方法は、彼の『賜物』論などでも展開されていたものである。ドリーニンの仕事によって、「社会や政治の流れに全く無関心で自らの芸術にのみ目を向けていた」というナボコフ像についての神話は崩され、その代わりに、祖国の行く末に常に目を配り、ソ連文学にも丹念に目を通していた一人の亡命作家の姿が浮かんでくる。 逆に、ソ連側からのナボコフに対する知られざる反応を明かしたのは、ロシア科学アカデミー図書館の学芸員マルティノフの報告だった。マルティノフは、2001年にペテルブルグで出版されたロシア・ソ連におけるナボコフの分厚いビブリオの編纂者である。彼は亡命後のナボコフ(シーリン)についてロシア(ソ連)で始めて言及したのが誰かを明らかにするため、膨大な出版物に当たったという。彼の発見したところによれば、1921年にナボコフの詩集についての書評が二本発表されている。ペンネームを用いたその二人の書評者の正体は、片方がブリューソフ、もう片方はザミャーチンだという言葉に、会場はどよめいた。

 すでに述べたように、ナボコフのシンポジウムの出席者は大半が常連のナボコフ研究者だが、ときどき文学研究者ではない別の分野の報告者が現れる。ナボコフは鱗翅類学者でもあったが、たしか以前には蝶類の専門家が報告したことがあって、我々文学研究者には縁遠い専門的な知識を交えた話が大きな注目を浴びていた。今回報告したマルティノフ氏も、図書館の司書であってナボコフの作品についての専門家ではない。彼の披露した発見にしても、ある意味では(日本の某テレビ番組風に言えば)「へぇ〜」と思わず声が上がるちょっとしたネタでしかないかもしれないが、マニアックなナボコフ研究者ファミリーの面々にはたいへん受けがよく、職人の仕事と言ってもいい地道な努力による発見に、一同、素直に拍手を送ったのである。

 その他、全ての報告の内容を詳しく紹介するわけにもいかないので、あとは簡単に概要を述べさせていただく。今回の学会には「ナボコフとロシア亡命文学」というテーマが設けられていたので、「ホダセーヴィッチの『重い竪琴』とナボコフの『賜物』」(オリガ・ヴォローニナ、ハーヴァード大)、「ブーニンとナボコフの"芸術家小説"(『アルセーニエフの生涯』『向こう岸』)」(イリヤ・ニチポロフ、モスクワ大)、「ナボコフとアルダーノフにおける"偶然性の詩学"」(エレーナ・トルベツコヴァ、サラトフ大)といったように、他の亡命作家の作品と共通のテーマやモチーフを取り出して比較した報告や、「亡命詩人の批評家としてのナボコフ」(アレクセイ・フィリモノフ)のように亡命文学界との関わりを論じるなど、テーマを意識した報告が多かった。

 ここ数年の研究の新しい傾向のひとつとして、文学以外の様々な領域の影響を指摘する流れがある。今回の学会でも、1910〜20年代に流行したロマンスのテクストとナボコフのテクストを比較したボリス・カーツ(ペテルブルグ、ヨーロッパ大)、ナボコフの同時代の背景として20年代〜30年代の亡命社会の映画批評を幅広く紹介したラシット・ヤンギロフの報告、1918年の無声映画「ラスト・タンゴ」を中心に大衆映画とナボコフの後期作品『アーダ』の性的モチーフを比較したドナルド・B.ジョンソン(カリフォルニア大学)の報告があった。カーツとジョンソンの報告が、それぞれ大衆歌謡や大衆映画という卑俗なジャンルのアリュージョンをナボコフの作品に探す具体的な内容であったのに対して、もともと歴史畑出身のヤンギロフの報告は、膨大なアルヒーフ資料と知識に基づいて、1920年代から30年代の亡命文学界の映画観を概要するものであり、具体的なナボコフの作品の細部にはあまり触れていなかったが、ナボコフの世界観や文体に映像芸術が与えた影響に関心をもっている私にとって、映画という当時はまだ新しかった芸術に対してナボコフと同時代の文学者たちがどのような反応を示したかは、たいへん興味深く、為になる内容だった。 私自身は、今回は映画ではなく写真に着目し、スーザン・ソンタグやロラン・バルトの写真論を援用しながら、ナボコフ、ブーニン、ホダセーヴィッチの作品における写真のイメージの比較を試みた。それぞれの作家(詩人)が写真という媒体をどう捉え、作品の中でどのように用いたかを通して、彼らの世界観や作品の特徴を浮き彫りにしようという趣旨である。 ここで日本から参加した他の二人の報告についても触れておこう。



写真:報告する筆者

報告する筆者(左側は端から、オムリー・ロネン、アレクサンドル・ドリーニン氏)



 東京大学の沼野充義氏は、ナボコフとオレーシャという同じ年に生まれた二人の作家を取り上げ、彼らに共通する「世界を見る目」の新鮮さと、それを言葉で表すことによってありふれた事物を「異化」する手法を比較して論じた。沼野氏はずいぶん前にも同様のテーマで論文を発表しているが、亡命者として生涯を異国の地で送ったナボコフとソ連に残って創作を続けたオレーシャは、「壁」が崩壊してソ連文学と亡命文学のあいだの溝がなくなった現在でも、あまり並べて論じられることはなく、その意外な着眼点が高く評価されていた。

 3日目に行なわれた亜細亜大学の松本賢信氏の報告は、ナボコフのチェスに関する詩とチェス・プロブレムを解析するものだった。私は東大の大学院に在籍していたころ、「ナボコフを研究するからにはチェスができなくては」と意気込んで、長谷見先生を巻き込んでチェスの会を作ったが、指し方のルールを覚えただけで満足してしまい、発起人がその有様では会も続くわけがなく、なんとなく自然消滅してしまったのだった。それ以来、チェスの駒に触れることもなく、覚えたはずの指し方や棋譜の読み方さえ既にあやふやになっている。詩の分析に関する部分はまだしも、a-4, g-7・・・と符号が延々と続くプロブレムの説明は、私にはちんぷんかんぷんだったが、会場の人々は配られたプロブレムの図面を見つめながら熱心に聞き入っており、私は久しぶりにまた「ナボコフを研究するからにはチェスができなくては」というかつての意気込みが胸の中で再燃するのを感じた。

 朝10時半から夕方6時まで一日中、慣れない外国語で専門的な話を聞くのは、容易ではない。一日の後半になって集中力が切れてきた頃に、報告者が早口だったりぼそぼそ喋ったりすると、もうお手上げである。そんなときには、ここでよくわからない話をじっと聞いているより、書斎にこもって書かれたテクストをきちんと読むほうがよほどいいのではないかという思いがよぎる。論文を読んでぜひ知り合いになりたいと思っていた研究者と念願かなって休憩時間に話をするときにも、自分の語学力の限界を思い知らされるばかりで、言いたいことの半分も表現できないように思える。それでも、こうして国際学会に出向いて海外の研究者たちと同じ場に居合わせ、たとえ拙くとも息の通った言葉を語ることで、文字を通してだけでは決して得られない有意義な体験ができたと思う。

 私はこれまでナボコフ博物館で開かれる国際学会やセミナーに参加したことはあっても、報告はせずもっぱら聞くほうに回っていた。すでに顔なじみになった館長のタチヤナに「今回がようやく報告デビューなの」と言ったら、彼女は「進歩してるわね(прогрессируете)」と言ってにっこり笑った。私はこの言葉が、報告の内容を誉められる以上に嬉しかった。文学研究なんて誰にも必要とされないのではないか、文学研究自体に意味があるとしても、その中で自分のやっていることにどれほどの価値があるだろう…。時にそんな弱気にくじけそうになりながらも、これまでなんとかやってきたのは、前に進むためではないか。文学研究者に限らず誰にとっても、最高のライバルは他人ではなく自分自身であるはずだ。他者の歩みに比べて勝ち誇ったり劣等感にさいなまれたりするのではなく、迷ったり躓いたりしながらもたしかに前に進んでいると確認しながら、おぼつかない足取りで一歩一歩進んでいくしかない。私にとって国際学会とは、様々な研究者たちとの出会いや交流の場であると同時に、ロシア文学研究の世界へと旅に出た自分の歩みをあらためて確認する場でもある。



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