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20世紀ロシアの人文知の魅力 桑野 隆

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本日は,「20世紀ロシアの人文知の魅力」というタイトルでお話をさせていただきます。


なぜ「20世紀ロシア」かと言いますと,20世紀初頭より,ロシアの芸術や人文学,あるいは文化一般は,ヨーロッパのそれらと並ぶ同時代性を獲得し,相互に引用可能なものとなったと考えているからであります。


そして,「人文知の魅力」ということで私が念頭においているのは,もちろん,20世紀ロシアの「人文知」のすべてというわけではありません。私が魅力を感じているものは限られています。それらは,昨今のロシアの学者たちがрусская теорияとかрусская интеллектуальная революцияなどの表現でもって指しているものと,かなり重なり合っています。 


たとえば,ひとによっては,「20世紀ロシアの人文知」ということで,まずはいわゆる「ロシア哲学」が思い浮かぶこともあろうかと思います。この宗教哲学の代表格の一人アレクセイ・ローセフは,「ロシア哲学」(1918)において,ヨーロッパ哲学の基礎はratioであるのにたいして,ロシア哲学の基礎はLogosである。「ratioは人間的な性質であり特徴である。ロゴスは形而上学的であり神的である」と述べています。そして,ratioや理性主義・合理主義は「宿命的な限界,超越不可能な境界」を有していると批判しています。


ところが,私が魅力を感じているのは,むしろそのように「宿命的な限界」を背負った「知」のほうであります。そのような次第で,私から見た「20世紀ロシアの人文知の魅力」には,「ロシア正教に通じていないとわかりにくい,ある意味ではロシア的ともいえる知」は含まれていません。私が魅力を感じる「人文知」は,極端にいうならば,ロシアそのものを知らなくとも理解でき,「引用できるような」知です。


ただそれと同時に,西洋的な知であれば魅力的であるかといえば,けっしてそうではありません。私が惹かれるのは,西欧のものまねではない,あるいはものまねにとどまっていないような人文知です。


いまから振り返りみますと,私が1970年代なかばから今日にかけてとりあげてきた人物やグループも,結果的にはそのような「人文知」でした。なお,ここでいう「人文知」とは,文学,哲学,歴史,心理,芸術,言語等々を指しています。これらはいずれも,単に数量化するだけでは片づかないような問題に取り組むものであります。


近年,政府からの圧力もあって,人文学の危機が云々される機会が多くなってきましたが,私が東京工業大学に勤めはじめて間もない頃(1980年代初頭),4,5歳年下の数学専攻の大学院生が,真面目な表情で私に次のような「悩み」を打ち明けたことがありました。


「僕は文科系にたいする優越感からどうしても抜けられなくて困っています。数学なら一つの答を明快にだすのに,先生のような文科系の人間は同じようなことをいろいろ言葉を変えて繰り返しているにすぎないように思えるのですが。」


この思いもかけぬ「悩み」相談にたいして私がどう答えたのか,いまとなっては正確に思いだせません。「そんなことをいうけど,君たちの大先輩遠山啓氏は〈偶然性が生きている社会こそが健全なのだ〉と言ってるぞ」などと,言い返したような気もします。あるいはまた,「馬場宏先生(筆名は江川卓)が訳されているドストエフスキーの『地下室の手記』には,〈しかし,よく考えてみれば,諸君,二二が四というのは,もう生ではなくて,死の始まりではないのだろうか。少なくとも人間は,なぜかいつもこの二二が四を恐れてきたし,ぼくなどはいまでもそれがこわい〉とあるよ」などと,言ったかもしれません。


結局,それを機会に私は他大学の文系の学生にも参加してもらい,「理系と文系の対話の会」というものをつくりました。ところが,各自がやっていることを〈他者〉に説明し理解してもらおうと設けたはずの「対話」の会が,「対話」どころか喧嘩になることがよくありました。たとえばこんな具合です。


理:文科系など日本社会の進歩に何ら具体的な貢献をしていないじゃないか!

文:そういう日本社会を君は理解しているのか。専門の本しか読まないくせに!

理:今日の日本の技術水準の高さは誰のおかげだ!

文:なに! 金儲けにしか役立たず,公害の一つも防げないで,何が技術進歩だ!

理:原発なくして生活水準が落ちていいのか!

文:もちろん,いい。それより安全が第一だ。原発がほんとうに安全というなら東京のど真ん中につくってみろ!


こんな調子のにぎやかな「対話」でしたが、「実は完璧に安全などというのはありえないのであって,東京の真ん中につくらないのは,万が一の場合に被害者を少なくするためだ」などと原子物理学専門の院生が「居直った」ために,会自体が解体しかねないようなときもありました。


こうした激しいやりとりが交わされていたのは,いまから40年近くも前のことです。私自身も文系側に加わっていましたが,そのさいに比較的反応がよかったのは,狭い意味での哲学や思想よりも,言語論や記号論でした。言語は6つの機能をもちあわせており,ただ単に情報伝達するだけのものではないとするヤコブソンの図式や,ボガトゥイリョフの民俗衣裳の記号論,あるいは記号論ブームの初期のウンベルト・エーコやジャン・ボードリヤール,ロラン・バルトの例を用いて説明すると,世界というものは「他者」との関係ではじめて意味をおびてくるのであって,しかもその世界はけっして一義的なものではなく多義的なものであること,それを明らかにするのも文系の学問の役割の一つであることに,少しは気づいてくれたようでした。ただ,当時はまだまだのどかな理系・文系対立でありました。


ところが最近では,ネット社会の広がりなどで情報が過剰になる一方,思考停止の傾向がいよいよ強まってきており,ちょうどそれと並行するかのように,人文学への風当たりもますます強まってきているように思われます。世の中に目に見えて役に立つかどうか,もっといえば人々にではなく国家に役に立つかどうかが基準になっており,その単純さに反論することはさほど難しくありませんが,こうした風潮のなかで目立つ人文学批判の一つに,それぞれの「専門知」がその領域に閉じこもったままにあることへの批判もあります。この批判自体は当たっている面もあると思います。


これに関しては,研究分野によってはそう簡単に対応できない場合もあるかと思いますが,昨今では,専門家たちが各分野の研究成果や知識を重ねあわせようという試みが,活発になってきています。こうした動きは,もちろん望ましいことです。またそれと同時に,いまや私たち個々人も,みずからの「知」をすすんで外部に広げる,あるいはまたみずからの「知」を複合的なものにしていこうとする姿勢が必要だと思います。


この点では,最近では,ロシア研究者のなかにも,複合的な知の実践者が確実に増えてきているように思われます。実は私は,この点では,20世紀のロシアにはすぐれたモデルがいくつも存在していたと考えています。一個人で「複合的な知」を体現していた者も何人もいれば,共同で新たな知をつくりあげようとした者も数多くいました。たとえばバフチン,ヤコブソン,フロレンスキー,シペート,エイゼンシテイン,ロートマン,イヴァノフ,ロシア・フォルマリズム,ロシア・アヴァンギャルド,ガーフン(国立芸術科学アカデミー)などが浮かんできます。ちなみに,ガーフン以外にも,革命後さまざまな共同研究機関,共同創作機関が設けられていますが,こうした複合的機関の試みから学ぶ点は少なくないと思います。


こうした知は,「未分化」の知として軽視されがちですが,良くも悪くも,特定の分野に限定されない知は,20世紀ロシアではごく普通に見られた現象で,その辺の実態はもっと再検証されるべきです。


また、それらには理論家と実践家の双方が関わっていたことも,もっと重視されていいと思います。たとえば演劇理論でも,それが演出家からみた場合にどう使えるのかという視点が加わるかどうかで,かなり違ったものになると思います。


なぜロシアの知がこのように複合的であるかは,単に学問の発達が遅れていたという理由だけではもちろん説明がつきません。私の思うに,学問がつねに同時代の文化全体や社会との関係を意識していた,あるいは意識せざるをえなかったことも,大きな要因になっています。また,政治の革命と,芸術や学問の革命との関係にしても,マイナスにしか働かなったわけではなく,両者の相互作用から生まれたオリジナリティは,まだまだ再評価すべき点が残っています。


実際,当のロシアでもそのような再評価の作業が,さまざまな工夫をこらしながら活発化してきています。たとえば,ちょうど今年,ロシアで,『オストラネーニエ〈異化〉の時代:ロシア・フォルマリズムと現代の人文知』という大部の論集が出ました。2013年の国際会議の報告をもとにしたこの論集には,村田真一さんも寄稿されています。文学に限らず芸術,フォークロア,思想,さらには人文学一般を「異化」という視点から見直した場合に何が見えてくるかを明らかにしようとした,有意義な国際会議だと思います。また,昨年にはロシアで,『形式的方法』というタイトルの合計3000頁近いアンソロジーが出ましたが,そこにとりあげられているほぼすべてがもっと翻訳が出てほしい人物です。各人物に添えられている論考も読みごたえがあります※。


※ Формальный метод: Антология русского модернизма в 3-х томах, под ред. С.А.Ушакина, Кабинетный ученый, Москва-Екатеринбург, 2016.文学理論のシクロフスキー,トゥイニャノフ,エイヘンバウム,ヤコブソン,ブリーク,トレチヤコフ,美術のマレーヴィチ,タトリン,リシツキー,ガン,ロトチェンコ,ステパノヴァ,演劇のメイエルホリド,映画のエイゼンシテイン,ヴェルトフの文章を収録。


ロシアでこうした動きが活発化している一方,20世紀ロシアのこのような人文知に関する日本における紹介は,不十分です。もちろん,まったくないわけではなく,注目すべき出版も相次いでいます。時間の関係でここでは,思想関係から乗松亨平さんの『ロシアあるいは対立の亡霊』(講談社メチエ,2015)だけあげておきます。ちなみに,乗松さんのこの著書がきっかけになり,『ゲンロン』で「ロシア現代思想」特集が続くことは,大いに注目されます。実に貴重な試みだと思います。そこで扱われている21世紀ロシアの思想は,私などには的を絞りにくく,整理もしにくいのですが,その辺を見事に工夫しており,参考になります。また,ロシア語と無縁の方々にとっても大いに刺激になるものと期待されます。こういう動きが,20世紀に関してももっと出てきてほしいところです。


* * *


さて,ここからは,私自身の経験をざっと振り返ってみたいと思います。


今回の講演を機会に,これまで書籍の形で出したもののリストを作ってみました。これを見ると,私が若い頃からほとんど切れ目なく出版社のお世話になってきたことが,改めて実感されます。ここには本の形になったものしか挙げていませんが,もちろん,執筆者の一人としてエッセイ等を寄稿した本や雑誌の編集者にもお世話になってきているわけでありまして,結局1972,3年から今日までの45年間近く一貫して発表の場を与えてもらってきていることになります。


実は,私は日本ロシア文学会で研究発表をしたことがありません。勉強自体は好きなのですが,オリジナルな研究となると苦手で,結局,研究よりも紹介のほうを優先したまま,今日に至っています。このリストからもお分かりのように,ロシア語の教科書や参考書,辞書を除き,あとはすべて紹介です。紹介を目的としている以上,私にとっては執筆も翻訳も基本的に違いはありません。執筆にしても,私の場合は外国語の知識を活かしての文章がほとんどなので,これもまた広い意味での「翻訳」であって,価値は同じであると考えています。


さて,振り返りますと,本としては翻訳が先に出ており,1975年にシクロフスキーほかの『レーニンの言語』,翌1976年にヴォロシノフ,バフチン『マルクス主義と言語哲学』が出版されました。前者は,政治の言葉のレトリックを「学問的」にあばいていく装置として,後者は「記号としてのイデオロギー」という視点から記号あるいはイデオロギーを批判していくためのモデルとして,日本に紹介していく価値があろうと考えたしだいです。このように述べた時点ですでに,桑野によるロシア・フォルマリズムやバフチンの紹介の仕方は,かなり偏っていて怪しいな,と感じる方もいらっしゃるかもしれません。


このあと,翻訳だけでなく著書も出すようになり,いまに至っているわけですが,実は,本を出すきっかけのようなものは1990年代初めあたりで大きく変わっております。その背景には,もちろん日本の文化状況,社会状況の変化がありますが,それ以上にはっきりとしているのは,1990年代初頭当たりまでは,ほぼどの本の出版にも,同時代批判を目的の一つとした「研究会」や「サークル」のようなものが絡んでいたということです。また1985年あたりまでは,ロシア・アヴァンギャルド研究会は別にして,どの会もメンバーは私より10歳は年上の人が中心でした。大まかにいえば「60年安保」世代です。問題を一人で片づけず対話を重視した「サークル精神」がまだ重視されていました。私は,1972年に東京外大の修士を出たものの,今後自分はどのように表現していけば社会に貢献できるのか,大げさにいうと、どのように生きていけばいいのか,と悩んでいるときに,こういう方々と出会っていったわけです。


本とその背景にあった研究会を順にあげておきます。
『レーニンの言語』(ロシア・アヴァンギャルド研究会)
『マルクス主義と言語哲学』(現代批評の会)
『ソ連言語理論小史』(1979:岩波書店の月刊誌『文学』の研究会)
『民衆文化の記号学』(1981:総合文化の会)
ボガトゥイリョフ『民衆演劇の機能と構造』(1982:総合文化の会)
イヴァノフ他『ロシア・アヴァンギャルドを読む』(1984:民衆文化研究会)
『バフチン:〈対話〉そして〈解放の笑い〉』(1987:岩波書店『思想』の20世紀芸術研究会)
リハチョフ『ロシアからの手紙』(1989:民衆文化研究会)
『未完のポリフォニー』(1990:民衆文化研究会)


ちなみに,以上の会のうち,ロシア・アヴァンギャルド研究会だけは,「ロシア」という言葉が入っていますが,1973年5月にできたこの研究会も,当初はロシア文学会の会員は水野忠夫先生と私だけでした。この会には,いくつかの出版社の編集者やときには芸術の実践家も加わっていました。また,当時は,ロシア・アヴァンギャルドにたいする関心は,ロシア研究者のあいだではさほど高くなく,むしろロシア関係以外の人びとのほうが高く評価し興味を抱いていました。発足後一年も経たないうちに特集を組んだ『芸術倶楽部』1974年,1・2月合併号「特集・ロシア・アヴァンギャルド芸術」の編集後記にはこう書かれていました。


これまで全く断片的にしかとらえられてこなかったロシア・アヴァンギャルド芸術の様々な〈試み〉と領域に橋を架けること,その作業を通してロシア・アヴァンギャルドの創造の経験と芸術的思考の全体像をさぐること――つまりベンヤミン風に言えば〈引用可能〉とする努力のなかから,同時に,現代芸術におけるいわば文化革命的課題をあきらかにすることをめざしてロシア・アヴァンギャルド研究会が始められたのは,昨年の5月のことであった。本特集は,美術,演劇,映画,文学,言語学など各領域からの参加による研究会の共同作業の積み重ねのなかで企画された……


この文章を書いた久保覚さんは,当時はせりか書房の編集長でした。この会の一回目の報告も久保さんが行ない,その後も河出書房や晶文社の編集者がこの会で報告しています。実に刺激的な報告ばかりでした。当時は,編集者も大学教員も,問題意識を共有しながら,このような共同作業を行なおうとしていました。そのような環境では,久保さんがあげている「ベンヤミン風にいえば〈引用可能〉とする努力」が何よりも重視されることになります。ここでいう「引用可能」とは,批判的装置として活かしてもらえるような形で提供するという意味です。


私自身のその後の仕事も,これをめざしていくことになります。そして,ロシア・アヴァンギャルド研究会を除くとあとのどの研究会も,ロシア関係者がほとんどいないこともあって,どこにおいても,ロシアの文化を日本語に「翻訳」し,引用可能なものとすることが,私の役目となりました。


とくに,ロシア・東欧の言語論や記号論,ロシア・フォルマリズムに関する注目が欧米圏で高まってきていたこともあって,この分野のことをもっと知りたいという人が多くいました。ここでいうロシアの記号論とは、主としてモスクワ・タルトゥ学派の記号論です。とりわけフランスで翻訳が相次いでいました。にもかかわらず,その辺を扱っているロシア関係者がほとんどいませんでした。このモスクワ・タルトゥ学派が1960年あたりから進めてきた構造主義や記号論の運動は,当時のソ連の状況を考えると画期的でした。また,自分たちの理論は「フォルマリズムではなく構造主義である」としきりに弁解する一方で,ロシア・フォルマリズムそのものやバフチン,さらにはフロレンスキー,フレイデンベルグなどを着々と再評価していく戦略にも注目しました。


さて,最初の書き下ろし『ソ連言語理論小史:ボードアン・ド・クルトネからロシア・フォルマリズムへ』は,さきにあげました岩波『文学』の研究会の副産物であり,そこで報告した内容がいくつか含まれています。章立ては次のようになっています。ちなみに,この章立て自体は当時としては類例がなかったと思います。私のほかの本などもそうですが,中身にはまったくオリジナリティがないのですが,紹介の仕方はまあまあオリジナルな面があるかと思っております。


第1章 ボードアン・ド・クルトネ

 初期ボードアン/カザン時代/ソシュールとの邂逅/ドルパトからペテルブルグへ/ボードアンの学説の若干について

第2章 モスクワ言語学サークルとペテルブルグ学派

 モスクワ言語学サークル/ペテルブルグ学派/若き言語学者たちとソシュール/ポテブニャ/新言語・文学研究会

第3章 詩学誕生の前提

 『言葉の復活』/ロシア・アヴァンギャルド運動/シクロフスキーとボードアン/未来派と若き言語学者たち

第4章 詩的言語

 オポヤズ/ヤクビンスキー/ポリヴァノフ/「ポテブニャ」とシクロフスキー/ヤコブソン/ヴィノクール/ベルンシテイン/その他の言語学者

第5章 ヤコブソンの詩学

 「文学と言語の研究の問題」/言語の6機能/隠喩と換喩/パラレリズム/音韻論と詩学/文法と詩学/記号学者ヤコブソン

第6章 「レフ」と言語学

 言語技術学/言語の多機能性

第7章 バフチンによる言語学批判

 対話の言語学/マルクス主義的記号学

第8章 ボガトゥイリョフの記号学

 ジャンルを超えて/機能構造主義/記号学/演劇の記号学

付章 ポリヴァノフとマール主義

 マール主義とのたたかい/言語進化の理論


なぜこのように小見出しまであげたかと言いますと,30歳前後に無鉄砲に書き上げたこの本でとりあげた人物や理論のほぼすべてが,結局はこれで一区切りということにはなっておらず,むしろ出発点になっているからです。その後も執筆や翻訳を通じて紹介を継続していくことになりました。実は,この連続性についてほとんど自覚はなかったのですが,今回の受賞を機会に改めて認識し,我ながらあきれたようなしだいです。


この本は目次からもおわかりのように,1910,20年代のロシア・ソ連に顕著に見られた,言語学を中心としながらも,それと緊密な関係にあったロシア・フォルマリズム,ひいてはロシア・アヴァンギャルド運動との関係に関心をいだいて書かれたものですが,同時にまた,「言語の機能の多重性」,「記号論」,「言語と社会の関係」という三つの問題が,1970年代より日本でも注目されてきていたことも,執筆の背景にありました。


ちなみに,このように最初の著書が言語論・記号論を中心としたものになったのは,大学院時代に言語学を学び(たとえばトゥルベツコイ,マルティネ),修論も「ボードアン・ド・クルトネ」であったことも,関係しています。詳しいいきさつは省きますが,学部時代のいちばんの関心事であった思想や哲学から距離を置き,言語学をやらねばならなくなったときの心境は複雑でした。それでも「言語と思考」とか「言語と社会」という領域を選んで何とか自分を納得させようとしたのですが,やりだしてみてわかったのは,こうした問題を考えるにあたっても,まずは純粋な言語学をしっかりと学び,そして言語体系を内在的にとらえられるようになる必要があるということです。言語学の常識といえばその通りなのですが,2年間で大学院を出なければならなかった私としては,言語の内在的構造に閉じこもるということは,(レーニンの党組織論とはまったく関係ありませんが)まさに「一歩前進,二歩後退」のような心境でした。


しかし,この試練は,その後,言語一般やロシア語を問題にする場合に,とても役立ちました。いうなれば,「構造主義的」思考が,かなり身についたわけです。内的法則性を重視しつつ,外部との関係を問題にしていく癖がついたと思います。


演劇などでも,ウスローヴノスチを基本としたメイエルホリド的な演劇が好きなのも,これとは無関係ではないかもしれません。いったん閉じたがゆえの批評性とでもいうべきでしょうか。ロシア・フォルマリズムへの関心も,同様です。


とはいえ,言語学そのものを専門とする能力は自分にはなかったし,「何のために」の答えをせっかちに求めていた私には言語学だけに専念するのは無理でした。


ヴォロシノフ名で出ていた『マルクス主義と言語哲学』も,マルクス主義と言語,言語と社会,言語と思考などに関する本を読みあさっている過程で出会いました。この関係の本を追っていたときに,偶然東京外大の図書館に眠っているのを見つけたのです。いわゆるアンカット製本,袋とじの本で,私がペーパーナイフで開きました。読んでみて,その画期的な内容に驚き,その興奮が冷めやらぬうちに,現代批評の会で報告したものでした。


さて,私の仕事のいわば前半期の最後の著書『未完のポリフォニー――バフチンとロシア・アヴァンギャルド』は,書き下ろしではなく,雑誌等に発表したものを再録したものです。


I バフチン

奪冠ではなく無冠を:バフチン再考/未完のポリフォニー/生きた「言葉」と「死せる」言語:バフチンと「スターリン主義」/キムジハとバフチン:広場の詩学

II ロシア・アヴァンギャルド

『爆』第二版のための覚書/ロシア・アヴァンギャルドと民衆文化:メイエルホリドを中心として/サーカスとアヴァンギャルド:ロシアの場合/「虚構」ではなく「事実」を!:トレチヤコフ論序説/ソ連民衆演劇運動の実験:20年代の〈トラム〉をめぐって/民衆的想像力の空間:ロシアの民衆版画をめぐって

III 記号論・詩学・言語学

ボガトゥイリョフの記号論/「場」の記憶の復権/アヴァンギャルドの記憶:ボガトゥイリョフの民衆演劇論/芸術の記号論に向けて:モスクワ・プラハ時代のヤコブソン/〈記憶〉のポエチカ:リハチョフについて/イヴァノフの記号論が孕むもの/カザン学派:ボードアン・ド・クルトネとソシュール


この段階でも,言語論・記号論が含まれてはいますが,実際には,バフチンとロシア・アヴァンギャルドが中心になっています。とても勢いよく書いていた時期です。また,このなかには民衆文化研究会絡みのものが多く入っています。ウイリアム・モリスなどの研究家であり,すぐれた編集者でもあった小野二郎さんを追悼した文章(1982)のなかで,久保覚さんが次のように書いています。


昨年(1881年)一月以来活動している,ぼくが粉川哲夫,桑野隆,里見実らと組織した民衆文化研究会が,ほかならぬ小野二郎の問題提起をバネとしてはじめられたのだということをこの機会にはっきりいっておきたいと思う。ぼくらはその研究会活動において,民衆の創造的伝統における集団創造の問題,集団的主体の形成と意識化のための民衆教育演劇の方法と思想の問題,それに現代資本主義の文化支配の問題の三つをテーマにして討論と活動を積み重ねてきた。


いま思い起こすに,世の中はすでに本格的な消費社会,あるいは藤田省三のいう「新品文化」の時代に突入していたにもかかわらず,この研究会を始めたのか,あるいは消費社会ゆえにこのような研究会をつくったのか,いまとなっては記憶が定かでありません。この会には,花田清輝や廣末保を高く評価するひとが多くいました。私自身もそうであって,たとえば山口昌男の道化論や祝祭論よりも,廣末保の悪場所論や遊行論,芭蕉連句論のほうに魅力を感じていました。いまから考えると,時代の動きとかなりずれていたのかもしれません。バフチンのカーニヴァル論や対話原理,メイエルホリドの演劇論なども,もちろん,こうした活動の一環としてとりあげてきました。いいかえれば,現代の具体的な実践例と照らし合わせるための「モデル」として,ロシアの経験を紹介してきたわけです。


さかのぼって,書き下ろしの二冊目の『民衆文化の記号学』の最後あたりでは次のように書いていました。


ベンヤミンは,「過去を歴史的に関連づけることは,それを『もともとあったとおりに』認識することではない。危機の瞬間にひらめくような回想を捉えることである」とも,「じじつ肝要なことは,文学作品をその時代と関連させて描くことではない。そうではなくて,それの成立した時代のなかに,それを認識する時代――われわれの時代――が描かれるようにすることである」とも述べている。このベンヤミン的思考法が,バフチンやボガトゥイリョフにはしかとそなわっていたことをゆめ忘れるべきではない。われわれがみずからの現在あるいは歴史のなかから民衆の笑いの文化をえぐりだすのに必要なのは,記号学的方法と同時に,このベンヤミン的思考法(オルガノン)ではあるまいか。


つづいての書き下ろし『バフチン』では,〈対話〉〈交通〉〈出来事〉〈生成〉〈場〉〈記号〉〈発話〉等が,バフチンの全著作をつらぬく根本原理であるとの理解から書きました。これも,最後のあたりを引いてみます。


私たちとしては,「都市は日々これ祝祭である」といった類の論と,バフチンのいう〈カーニヴァル〉との相違をいま一度想起する必要があろう。……思うに,私たちがいま求めるべきは,カーニヴァルそのものではない。まずは,カーニヴァルに代表されるような〈場〉であり,そのような〈場〉特有の〈関係〉である。〈未来〉に向けて〈対話〉する関係である。また,そうした〈関係〉が――たといいくばくかにせよ――実りをもたらしている具体例を各地,各時代に求め,それらの〈経験〉と〈対話〉することも必要である。……ホルへ・サンヒネスらの民衆映画運動,ボアールたちのラテン・アメリカでの民衆演劇運動,フィリピン教育演劇協会の運動,韓国のマダン劇運動,ブラジルの教育思想家パウロ・フレイレ,徳川期日本の連句芸術……網野善彦氏の仕事や,勝俣鎮夫氏の描く一揆のイメージ,廣末保氏の悪場所論……。そこには――たしかに,それぞれの現象としては微々たる力ではあったろうが――世界観の相対化ではなく,世界自体をも相対化しうる可能性が孕まれていた。

……

私たちに必要なのも,バフチンがとりわけラブレー論で展開してみせたような歴史の読み替え――〈近代化解釈〉批判――と同時に,パンソリのような〈場〉の創出であろう。そしていずれの場合にせよ,バフチンの〈民衆文化〉論が一つのモデルたりえよう。むろん断るまでもなく,〈民衆文化〉それ自体はあくまでも両義的なものでしかない。その危険性はとりわけファシズムが十分に立証してみせたところでもある。〈祝祭〉的な側面にのみ浮かれ戯れているわけにはいかない。モノローグ化を防ぐためには,「意識化過程」(林賑澤)がつねに伴っている必要がある。そのためにも,〈他者〉と能動的に〈対話〉する精神は,最低限必要となろう。この〈対話〉は,すでに述べたように相互批判であり自己批判でもある。……


こういった調子のバフチン論は,予想したごとく,バフチン・ファンから批判を浴びました。「バフチンはもっと明るくて楽しいぞ」とか,「アメリカのバフチン研究をまったく知らないようだ」とか。前者は当たっています。ただし後者は少々違います。実際にはアメリカの文献もほぼ読んでいましたが,私の狭い関心とはずれているものが多く,本のなかではほとんど使いませんでした。


ちなみに,新版では最後の章をかなり変更しています。もちろん,日本の文化状況の変化を踏まえてのことです。


このように,40歳ぐらいまでの著書に触れてきましたが,要するに,いずれも,研究ではなく紹介であることに変わりありません,それも,相当偏った紹介になっています。ロシア・フォルマリズムに関しての私の翻訳や文章も,当時の日本の批評状況,つまり個人的な印象を中心とした作品批評に対する批判が主になっていましたので,けっこう偏っていると思います。


いまから考えますと,こうした紹介の仕方もまた,「わかる人にだけわかればいい」といった調子になっている点では,学会発表の一部とさして変わりません。「選ばれたる少数の読者」に伝わればいいというところが,なきにしもあらずでした。


以上からも明らかなように,ロシア・フォルマリズムにせよ,バフチンにせよ,あるいはボガトゥイリョフにせよ,私が扱ってきたのはほんの一面であって,ほかの方々が改めてきちんと研究すべき余地は大きく残されています。というか,実際,すでに私のような読み方とは別の斬新な読みが次々と展開されてきていると思います。ともあれ,以上が私のいわば前半期の仕事ということになります。


* * *


これにたいして,1990年代に入ってしばらくすると,私が関わってきた会自体も,めざすところやメンバー構成が変わっていき,私も徐々に離れていきました。


1996年に『夢みる権利:ロシア・アヴァンギャルド再考』を書き下ろしましたが,これは,いままでとちがって,研究会などで報告したものではありません。東大の表象文化論の学部生を念頭においた講義形式のものでした。これまでとちがって「呼びかけ」というよりも,つかみどころのない相手にメッセージを送ってみるという感じでした。私にとって初めての経験でした。この本を執筆した際の工夫についても触れたいところですが,時間がなくなりそうなので省きます。


ともあれ,この本を書いたころは,ロシア・アヴァンギャルド関係の資料はまだまだ乏しい状態でした。21世紀に入って以降は,当のロシアからどんどん資料や著書がでていますから,いくらでも紹介すべきことがあると思います。たしかに,ロシア・アヴァンギャルドやスターリン時代の芸術や文化については,日本語でもここ数年,すぐれた研究書が相次いで出版されてきています(書名はあげません)が,それでも不十分だと思います。私がざっと読んだ限りでも,今日の日本で芸術や文化の問題に取り組んでいる方々,あるいは実践している方々が「引用するにちがいなかろう」というものが,いくつもあります。ラディカルな時代であればこそ生まれたラディカルな知から学ぶべきことは,まだまだ残されています。新たな会でもつくって,どんどん紹介していきたいものです。


研究は厳しく辛いものかもしれませんが,紹介は楽しいものです。たとえば私がバフチンを紹介してきてよかったと思うのは,教育心理学,日本語教育,携帯電話の製作者,社会運動家等々のさまざまな方から相談があるときです。理論や思想は,その解釈や読みの深さ,斬新さを競いあうだけでなく,気軽に「引用」してもらうことも必要だと考えています。その柔軟な引用ぶりから,私自身がバフチンの潜在力を新たに発見することもあります。


さて,このあとも,いくつか本を出させていただきましたが,それらは主として,モノローグを克服するためにバフチンが展開した対話原理,とりわけ対話的能動性の例を,20世紀ロシアの文化現象のなかからを導きだそうとしたものです。


そして最新の仕事としては,今年2月に『20世紀ロシア思想史』を刊行することができました。私にしてはかなり多面的にとりあげた方ですが,例によって偏っています。そもそも,狭い意味での思想史,あるいは旧来の思想史からはかなり外れており,しかも私なりの独自の章立てになっています。また中身も,本書に登場する人物や現象を専門に研究している方々からすれば,憤懣やるかたないところだと察します。


ちなみに,この本のあとがきにも少し書いたことですが,とりわけ本の場合は編集者との出会いがきわめて重要です。編集者の企画力や,執筆・校正段階でのアドバイスしだいで,本の出来栄えは大きく変わると思います。私の場合は,20歳代から本を出す仕事が始まっているせいもあってか,編集者に直してもらうことが当たり前のようになっています。これもまた対話的創造といえるかもしれません。編集者というよき「他者」にチェックしてもらうことが大切です。ちなみに,『20世紀ロシア思想史』などは,数多くの人物や現象を取りこんだせいもあり,意味不明の個所や私のとんでもない勘違いもあったりで,最後は編集者と共著のようになってしまいました。


* * *


さて,そろそろ締めくくりにかかりたいと思います。


私は,すでに述べたように,かなり限られた目的のもとに「20世紀ロシアの人文知」を紹介してきたわけですが,一方,そうした過程で自分なりに興味を感じた人物が何人もいました。ただ,自分がそれらに取り組むのは優先順位からしてとても無理である。かといって,そのままにしておいてはロシアの文化史が歪んで伝わったままになってしまう。しかも,ペレストロイカ後はロシア内での情報公開や研究が格段に進んできており,各段に伝えやすくなってきている。


そこで,この機会を活かすべきと考え,「20世紀ロシア文化史再考」というシリーズを企画し(1998年,水声社),フロレンスキー,マンデリシターム,マレーヴィチ,ヴィゴツキー,シペート,ヴェルナツキイ,フレイデンベルグという七人を選びだし,何を訳すかも,私が決めました。例によって,「引用可能などうか」をいちばんの基準にしましたので,必ずしもそれぞれの人物の主著であるとは限りません。ヴェルナツキイの訳が今年出ましたので,あとフレイデンベルグのみです。ただし,これらもまた,私の好みや価値観が入って選ばれた著作ですし,それに今日では当時よりも資料もまた一段と充実してきていますので,どなたかが改めて本格的に取り組むべきと思われます。


以上,とりとめのない話をしてきましたが,日本の文化状況,社会状況は,私が勢いにまかせて書いていた時期とは大きく変わりました。自分がやってきたような図式的なやりかたでは,今日ではとても通じないことは重々感じています。たとえば,当初は,管理されやすい活字文化に対抗して,非活字文化の可能性をさぐったりもしていましたが,今日では逆に活字文化の「危機」が云々されたりもしています。そのような変化も踏まえつつ,これからも,なるべく多くの読者に向けて発信していきたいし,皆さんもまたそのようにしていただきたいと願っております。


最後に一つだけ例を引かせてもらいますと,モスクワ・タルトゥ学派の「文化の記号論的研究のためのテーゼ」には,個々のテクストは「話し手の立場」か「聞き手の立場」のどちらかに方向づけてつくられるとあります。


このことは,創作者ではない場合にも,ある程度あてはまると思います。「聞き手の立場」に方向づけた場合は,「もっとも価値あるもの」と「もっともわかりやすいもの」という概念が一致しているとテーゼで述べられていますが,皆さんも,緻密で独創的な研究を進める一方,広範な読者を念頭においた発信にも力を注いでいただきたいと思います。


さて、そのような視点に立ったとき,皆さんなら,ロシア語に無縁な方々に向けて,現時点で,1)どのような本を書きたいか,2)どのような本を訳したいか,ぜひとも知りたいところであります。

(くわの たかし)

 
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